脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

「もっと勉強しなさい!!」

 

「もっと勉強しなさい!!」

 

今まで生きてきたなかで
このような言葉を保護者の方や教師から言われたことがある方は
少なからずいることと思います。

 

「もっと勉強しなさい!!」


と保護者や教師が子どもに言う理由として


その子どものことを真剣に考えているから


が挙げられると思います。

 

確かに
その子に対して完全に無関心で
放任してしまうことに比べると

 

「もっと勉強しなさい!!」

 

と言うことは幾分かマシだとは思います。

 

しかし


「もっと勉強しなさい!!」

 

と言われて
素直に勉強を始める子どもは
どのくらいいるでしょうか。

 

・勉強すれば褒めてもらえる
・勉強しないと何かしらの罰が与えられる

 

といったような一時的な賞罰
仕方なく勉強を始める子どもは
いるかもしれませんが
一時的な賞罰が長続きすることは
あまり無いように思います。

 

ここで
一つの疑問が生まれます。

 

何故
子どもは


「もっと勉強しなさい!!」


と言われても素直に勉強を始めないのでしょうか。


この問いに対する僕なりの答えを
先日参加した
「Teach for Japan×ビッグイシュー」のセミナーで見つけ出してきました。

 

そのセミナーでは
1グループ5〜6人に分かれ

 

子どもの貧困の原因は?

 

というテーマを基に各々が思うことをポストイットに書き
そのポストイットに書かれたことをディスカッションで更に掘り下げていく、ということをしました。

 

全4グループあり
僕が属していたグループに
(年齢を伺っていないので
正確な年齢は分かりませんが...)
40代くらいの男性の方が
お一人いました。

 

その方はなかなか鋭い観点から
物事を語ってらっしゃって
すげぇな〜〜
こんな視点もあるんや!
と僕自身驚きを隠すことが出来ませんでした。

 

その方と
セミナー終了後少しお話をしたのですが
その方は今大学院に入学し
勉強をされているらしく

 

「君と僕は同じ大学生だね〜」

 

と嬉しそうにおっしゃられていて
更に勉強している内容を尋ねると
それはもう熱量たっぷりに勉強している内容を僕に話してくださいました。

 

この方にお会いして
もしかして
子どもが勉強しなさい!
と言われて勉強しない理由は


大人(保護者や教師)が勉強する姿を子どもに
見せることが出来ていないからではないか?

と思いました。

 

「子どもは親の背中を見て育つ」

という諺がありますが
まさしくこの問題にも
かなり密接に関連しているのではないでしょうか。

 

子どもに勉強をさせたい!!
と思うのであれば

 

それを言葉で強制するのではなく
自らがまずは主体的に勉強し
そしてその姿勢を見て子どもが勉強するのを待つ


といった
従来とは異なったアプローチもまた考えられるのではないでしょうか。

別れの季節

   卒業式シーズン!うちの大学でも卒業式でした。この季節になると、高校の時に教えてもらった詩をいつも思い出します。

勧君金屈巵
満酌不須辞

花発多風雨         

人生足別離

于武陵の『勧酒』です。井伏鱒二が結句を「さサヨナラダケガジンセイダ」と訳したことでも有名なこの漢詩。僕はとても好きです。

   これまではテーマの別離しか分かりませんでしたが、大学においてこの漢詩がもっと分かった気がします。

   起・承句が今までは全くなかったわけですが、大学生になってお酒も飲むようになりました。井伏訳「コノサカズキヲウケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ」をまさに卒業生相手にすることができました。笑

   しかも各地方に戻っていく人が多いので、なかなか会うことも難しくなります。高校までは卒業しても地元ですぐ遊んだらできていましたが全く違う地方へ戻るために、二度と会うことがないということもあるかもしれません。

   僕も来年度は送られる側なので、是非後輩になみなみとお酒を注いでもらおうと思います。

「これからどうするのか」?

 

こんにちは。

 

連日ワイドショーや紙面上を
賑わせている姫路市
認定こども園に関して
僕が感じたことを絡めて


これおかしいんとちゃうか?


と思うことを今日は述べていきます。

先日Facebookで述べたことと

重複することがあるかと思いますが

お許しいただければと思います...。

 

まず
姫路市認定こども園に於いて

 

・定員を超える子どもを受け入れていたにも関わらず給食は定員分のみの注文で子ども一人あたりの給食が著しく少なかった
・保育士が遅刻をすると罰金という形でペナルティを課せられていた

 

上記の2点が主に問題だとして
取り上げられていることと思います。

 

子どもの基本的人権を冒涜している
由々しき問題であることには
変わりありませんし
決して見過ごすことは出来ないと思います。

 

ただこの問題は
認定こども園の認定を取り消せば
一件落着する話なのでしょうか。

 

もし仮に
この認定子ども園を潰してしまうことが目的なのであれば
認定を取り消すことで目的は達成されやすくなるでしょう。

 

しかし目的はそこではないはずです。

 

目的は
このような劣悪な環境に子どもが
そして保育士が
置かれることのないようにすること

ではないでしょうか。

 

この目的を達成する為には
認定を取り消す!
と目に見えやすい事だけに取り組んで
はい、おしまい。
とするのではなくて
子ども一人ひとりの基本的人権が遵守され
子ども一人ひとりが安全、安心に暮らせるような環境を構築し
且つ
その子どもの成長をサポートする
保育士の待遇を改善すること
がすべき事なのではないでしょうか。

 

今読んでいる『幸せになる勇気』
からの引用になりますが

われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。「悪いあの人」などいらない。「かわいそうなわたし」も必要ない。

 

アドラー心理学に基づいた

カウンセリングを行う際

「悪いあの人」
「かわいそうなわたし」
「これからどうするのか」
の言葉が各面に書かれた
三角柱を相談者に渡し
これから何を話すのか、相談者自身に決定させるそうです。


そうすると
殆どの相談者は
「これからどうするのか」の面を選択し
「これからどうするのか」について
話し始めるようです。

 

この問題に関しても
「悪いあの人」(認定こども園)
「かわいそうなわたし」(子ども、保護者)
について幾ら述べても
現状は何も変わりません。

 

大切なのは
「これからどうするのか」
だと思います。

 

そう考えると
姫路市認定こども園の問題にしても
百条委員会にしても

 

「これからどうするのか」

 

という視点が抜け落ちているような
気がしてなりません。

 

限られた時間、資源の中で
「悪いあの人」や「かわいそうなわたし」を述べるのではなく


「これからどうするのか」

 

に重きを置く重要性を今一度認識
する必要があると強く感じました。

 

 

当事者意識(衝撃の実話!!!!!)

   以前に塾で英語を教えている時にこんなことを言ってきた生徒がいました。

「あなたは音楽の教師です。(You are a music teacher.)」なんて使うことあるんですか?普段絶対言わないですよね。こんな文が出てくるの意味わかんなくてやる気でません!笑

   至極当然というか、自分も覚えがある感覚です。文法などを習う時に、あまりにも自分の生活とかけ離れていると感じることはありませんか? You are busy. なんて言われたとしても僕なら「は?」となります。今回はそんな学習における当事者意識の話です。

やる気でません!笑

  由々しき問題です。その時は笑いが混じっていたのでよかったですが、中1の彼はこの先様々なやる気でない文に対峙せざるを得ません。

   彼はやる気でない原因を普段使うことがないからと話していました。まさに You are a music teacher. に当事者意識を感じられず、こんなの習って何になるんだという気持ちでしょう。この例文で学ぶべきはbe動詞ですが、焦点というか問題になっているところがずれてしまって「英語意味わかんない意識」が先立っていってしまうのでは…と思います(国語の「和歌意味わかんない意識」もこれと同じではないでしょうか)。

   でも、教科書は僕が生徒だった頃の記憶を思い出しても、学校を舞台としたかなりのストーリー仕立てでした。ページの最初らへんにナントカ先生・ジョン・かなことかいう登場人物紹介があり、学校の1学期から3学期まで現実の時間と同じように進んで行きます。終いにはラノベやLINEスタンプにまでなっています。

https://store.line.me/stickershop/product/7773/ja

   それなのに、テキストでは You are a music teacher. 

   中1の彼に最初の話を振られた時は、「じゃあa music teacher を何に変えればいいと思う?fool とか?女の子に告白する時はbeautifulやな」とかを返してどっと笑いが湧きました。嘘です。じわじわ彼は笑ってました。

   前に記事にした「うまく話ができる先生」もこの辺の当事者意識を含めた話ができるという点があるのかなと思います。生徒をいかに引き込めるかというかに大きく作用している点だと。

   とりわけこういう質問は、ある程度勉強をできる生徒は思っていても口に出さないように個人的に思います。こんなもんだと開き直ってしまっている。むしろこういったことを疑問に感じて口に出せるような質問する力に会った時は、そんな力を尊重しないといけない気がしたりします。

当事者意識は大切

   今回は英語でしたが、以前PBLの勉強会に出た時もこの「当事者意識」については議題にあがりました。

  • 先生がいかにキャリア教育だとかPBLを重要視していても、生徒がついて来なけりゃ意味がない。   
  • 探偵ナイトスクープが最高のモデル。

などなど。僕が目指しているのは国語科教員なので、例をあげるとすれば和歌・品詞などでしょうか。

   和歌の深みも人生踏めば分かるよとか、実際に十何年くらいしか生きたことない生徒に言いつくろったで「あっそ」です。和歌なら導入のところで、現代のj-popと比較して和歌は個人の思いが込められているんだよとか、工夫していきたいなと思ってます。

   恩師みたいな、角が立つやり方はちょっとな…。

   

    なにかにつけ納得して進めていくには、当事者意識が必要なのだろう。

高校野球を考える!

 

こんにちは。

 

前回の
走れメロス』を覚えてますか?① の続編パージョン
走れメロス』を覚えてますか?②はFacebookにシェアはしていませんが
ちゃんとブログの方には投稿してあるので
お時間がある方は是非一読していただければと思います。

 

今回は
昨日より始まった第89回選抜高校野球大会に絡めて僕が考え、思ったことを述べていきます。

 

昨日の第3試合目で
智弁学園(奈良)vs熊本工(熊本)
の試合が行われ
昨年の選抜高校野球大会の覇者であり

春連覇を目指す智弁学園が9-0で勝利を収めました。

 

全国レベルになっても
このくらいの点差で試合が決まってしまうことはよくあることですし

[ちなみに今日の第2試合の

報徳学園(兵庫)vs多治見(岐阜)は21-0]
僕はこの結果にどうこう言うつもりはありません。

 

ただ
この結果に対する
メディアの反応に対し疑問を抱かざるを得ません。

 

”「被災地に勇気」誓いプレー”?

この試合に対する
僕が購読している新聞の見出しは
”「被災地に勇気」誓いプレー”
となっていました。

 

その記事の内容は
昨年4月に発生した熊本地震
熊本工の選手も少なからず影響を受け
自宅が大規模半壊と判断された選手や
野球を続けて良いのか?という
悩みや葛藤を抱いた選手がいたことを
取り上げた記事になります。

 

この記事で述べられている通り
様々な逆境に打ち克って甲子園という舞台に辿り着いたことは
とても凄いことだと思いますし
改めて「野球」というものの
素晴らしさを痛感させられます。

 

しかし
選手たちは本当に
”「被災地に勇気」誓いプレー”
をしていたのでしょうか。

 

このように書くと語弊が生まれると思うので
少し言葉を変えると


被災地に勇気を与えるためだけに
プレーしていたのでしょうか。


答えはNOだと思います。

 

恐らく彼らは
まずは勝つために
野球をしていたと僕は思います。

 

甲子園に出場することの出来るレベルの選手たち含め全国の野球部員は
それこそ野球漬けの日々を送り

「全ては日本一になる為に」

を目標に野球をやってきたことと思います。

 

まずは勝つ!
という目標があり
そのうえで
”「被災地に勇気」誓いプレー”
をしていたのではないでしょうか。

 

どうしても
この類の記事は
その辺りを履き違えているような気がしてなりません。

 

2011年3月11日に発生した
東日本大震災直後に開催された
第83回選抜高校野球大会に出場した
福島代表の聖光学院の主将の言葉を

思い出しました。

 

一言一句違わず完璧に

覚えているわけではないのですが

僕らは確かに震災で大変な目に遭った。
けれども大変な目に遭ったということはこの甲子園という場では
一旦忘れてくれませんか。
僕たちは毎日死に物狂いで練習をしてきて絶対勝つ!という目標を持ってこの甲子園にやってきました。

 

このようなことを言っていたのを

6年経った今でも覚えています。


これは

東日本大震災で大変な目に遭った」

というフィルターを通して
僕らのプレーを見ないで欲しい、

という彼らからのメッセージだったのではないでしょうか。

 

何れにしても
まずは勝つ!
ことを目標にしている高校球児に対して


”「被災地に勇気」誓いプレー”


をしたから負けても仕方ない!
というような
メディアの取り上げ方は
僕個人的には
どうかな〜という気がしています。

狭い教室の中で

教室とスマホどっちが広い?

   ソフトバンクのCMで時々出てくる言葉です。先生やサイトが示すより、どれだけ生徒等に影響があるんだろうと思います。実際あのCMとこの言葉を聞いてどう思ったか聞いてみたいです。

 

   あるサイトでキングコングの西野さんが言うには、授業の面白さは先生の話にかかっている、ということ。

   真面目に授業を聞いてもノートを取っても全く点が上がらず興味も湧かなかったのに、芸人仲間に歴史や音楽の話をされるとその後教科書を買って帰るほど面白いと思うことができた。「授業の面白さ=先生の話の面白さ」であるという意見でした。

   この記事を読んだ時に、実習で出会ったある先生の話が思い出されました。「ICT使って動画とか見せてるけど、みんなじきに飽きちゃうんだよね。やっぱり話ができないとダメですわ、先生。」理科で心臓を血がどう通っていくかとか、動画を見せても生徒はすぐ飽きてしまうということをICTを使われているということでお話しを伺った時に聞きました。

   見事にリンクしているなと思います。ICTだとかスマホだとかが狭い教室に入ったとしても、先生が上手く話して伝えられなければ魅力も減ってしまう。生徒が情報を得るということばかり焦点が当たりがちですが、先生も同様にICTを使うことで情報もさらに得られます。その情報をどう扱うのか、どう話して伝えるのかという点も留意していきます。

『走れメロス』を覚えていますか?②

 

こんにちは。

 

今回は
前回のブログの続きを書いていきたいと思います。

 

前回の最終部分で引用した箇所を
再度引用させていただきます。

 

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。

 

この箇所から
皆さんはどのようなことを
読み取ることが出来ますか。

 

僕は
この部分から

 

メロスを常に疑い続けることの重要性

 

を読み取ることが出来ると考えます。

 

例えば

 

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。


という部分。

 

ここから
更にメロス自身が自らを奮い立たせて
最終的に歩みを進めていくわけですが


この場面をメロスがハッピーエンドに至る為の布石


と読むか


メロスが歩みを止めるのでは?
と常にメロス自信を疑い続けるにあたって必要不可欠となる要素


と読むかで『走れメロス』から
読み取ることのできる内容は大きく
変わってくると思います。

 

前者であれば
とどのつまり

 

「正義、友情は権力にも勝るのだ!」

 

という一種のヒロイズムを
走れメロス』から
読み取ってしまいがちです。

 

が、後者だと
常にメロスを疑い続けることで
生徒の批評精神を育成することができると考えます。

 

そもそも
国語という枠組みの中で

 

「正義、友情は権力にも勝るのだ!」

 

という一種のヒロイズムを教えることは相応しいと言えるのでしょうか。

 

僕の答えはNOです。

 

国語教育と道徳教育の違いは?

 

と問われてはっきりとした答えを
導き出すことは出来るのでしょうか。

 

国語教育、道徳教育のどちらにしても
アプローチの差異はあれど
最終的な落とし所はかなり似通っている気がしてなりません。

 

そこで僕は
国語教育を通して
批評精神の育成
を目指していきたいと考えています。

 

その批評精神を育成するのに
走れメロス』という教材は
相応しいと言えるのではないでしょうか。

 

先にも述べた通り
常にメロスを疑い続けることで
走れメロス』という作品を
より深く読み、そこから
メロスを批評するという精神を
育成することが出来ると考えます。

 

何れにしても
走れメロス』という教材から

 

「正義、友情は権力にも勝るのだ!」

 

という一種のヒロイズム以外のことを学ぶことの出来るよう
これからも日々精進していければと思います。