脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

少年よ大志を記せ(昨日の続き)

   昨日、卒業文集について考えたことの補足をしようかなと思います。

タブーの蔓延と質の低下

   卒業文集について発見があったり、自分の文章が見つかって色々と物思いにふけった昨日でしたが、もう少しこれについて考えてみました。  ネットもサーフィンしてみましたが頻繁に「恥ずかしいことは文集に書くな。」という文言を目にしました。口が裂けても言えない、というかよくこんなのを載せるなと呆れたものです。

   「自分や家族だけでなく、友人やその家族も読む文集だから無難に書こう。」「一生残るものだから恥をかかないように気をつけよう。」など、無難のススメが跋扈していました。それでは作文の意味がないはずです。「自分にしか分からないことを誰にでも分かるように」書くことが作文執筆の理念だと考えているので(井上ひさし氏をはじめ、多くの方も仰っています。)、誰にでも当てはまるような所謂普通のことを載せても気持ちが伴わないし内容も面白み0です。作文を通して何を伝えたいのか、伝えようとしないなら大人になった時に読んでも意味がありません。それなら文集なんて作らず、ボールペンを一本でも記念に配った方がいい。作文のタブーがネットに溢れてしまっている気がします。

   卒業文集とは外れますが、紋切り型の文章や表現を書くことも避けています。自分の感情や意思を書き記すことを避けても伝わるものはすくないはずです。本当に自分がどう思ったのかを文字にすることで、良い作文が生まれるのではないでしょうか(この部分が難しいからこそ、上記の理念が最も難しい原則でもあります。)。

大志を記せ

   私の中学のように全員思い出を書いている学校もあれば、クラスごとに「将来の夢」といったテーマを決めて書くところもあるようです。そうすると必ず未来について書かなければいけないので一つの方法をかなと思いますが、このリンクをご覧ください。

https://matome.naver.jp/m/odai/2137061759032983301

   スーパースターの卒業文集です。年収いくらもらいたいなど大成していなければそれこそ上記の「恥ずかしい」内容ですが、皆自分の思うありのままの将来を語るだけでなくとても具体的です。

   全員が全員具体的に書けばいいというものではないと思いますが、昨日述べた「思い出でも過去から未来へ視点を向ける」時に具体的であれば、次なにをすべきかを考えられ作文を読んでもより振り返ることができるはず。

   作文とは離れますが教室に貼ったりする目標も「テストの点を平均以上にする。」から「テストで合計300点を取る そのために〜をする」や「部活を頑張る。」から「100mで12秒を切る そのために〜をする。」といったように、具体的かつ次の行動を分かるようにすることが質を上げられる方法なのではないでしょうか。

思い出の卒業文集?

   ブログを始めてから一週間が過ぎ、目標のアクセス数500を達成できました。三日坊主になることなくこの先も続けていきたいと思います。が、今までは些かまとまりがなさ過ぎたかなと。汗。これからしばらく、私は「作文教育」に関連することを考えていきます。今日は卒業文集についてです。 

生徒全員が

書いたことのある作文じゃないか

   卒業作文は小中学校卒業時に必ず認める作文であり、かつて生徒だった私達全員が書いたことのあるものではないでしょうか。もちろん私も書いていたので探してみたら、ありました。押入れの肥やしになっていました。写真は中3の私が書いたものです。

f:id:kyouiku01:20170122215409j:image

今はマラソンとトレイルランをぼちぼちしてます。4月には100kmです。

   文集ですので学年全員分の作文が載っている訳です。

自分が経験していても、やるもんだと教えられても、その「当たり前」と考えるものに意味はあるのか、一歩立ち止まって考え直すことを忘れてはならない。

というのが 私のブログ記事のポリシーですが、この卒業文集について考えてみました。

   大半の人は私の様に小中学校での思い出を書き綴ったのではないでしょうか。みなさんと自分の卒業文集を否定する訳ではありませんが、思い出を書き綴るってどうなの?と今回おもったのです。

「思い出」というブラインダー

   「思い出」というとなんだかきらびやかなもので誰にとっても汚されない、汚してはいけない良いものだという印象がありませんか?この崇高な思い出というブラインダーを取り除いて卒業文集を考えてみると、3つ疑問が湧いてきました。

  1. 思い出だからいいの?原稿用紙の書き方無視
  2. 未来と過去の矛盾
  3. 作文教育の賜物「時系列作文」

以下でそれぞれ詳しく述べていきます。

1.思い出だからいいの?

   卒業作文の意味といえば、「大人になって読み返す時に思い出を回顧するため」が一般的な答えでしょうか。みんながみんな思い出を綴る訳ですが、ここでも原稿用紙が登場します。そしてコバンザメのようにこの紙に必ず付いてくるのが形式でした。この形式が、卒業作文では無視されているのです。

   同級生の作文を見ると、段落が一切ない・文字とカギ括弧が1つの枠内に合体している・題名も3文字下げていない・段落の最初を1文字下げていない等、多岐に渡ります。これらは定期テストで作文があると格好の餌食。減点対象です。なぜ、先生方は訂正させなかったのでしょうか。「思い出書いてるんだからそんな野暮なことゆうな!」でしょうか。

   自分にしか分からないことを誰にでも分かりやすく書くことが大切で、それには形式が必要だということは他記事で述べました(また今度再考・改訂版の記事を出そうと思います。)。文集の読者が未来の自分だとしても、未来の自分にとっても分かりやすく書くべきだと思います。普段から厳密に守らせている形式を使わずして、いつ使うというのでしょうか。これを考えると原稿用紙の形式厳守と採点って本当に意味のない指導だなと感じます。集大成である作文にも全く反映させられていません。

2.未来と過去の矛盾

   卒業文集には生徒の作文だけでなく先生方からの贈る言葉が載っています。また、私の卒業文集のタイトルは「未来へ翔け 61期生」です。「ん?」とここで疑問です。

  • 先生方→贈る言葉・未来
  • 生徒   →思い出・過去

それぞれが全く逆のことを載せています。思い出を回顧するのは他にアルバムという具体的なものがあるなにも関わらずです。「卒業文集は過去の思い出を書くもの」という通例が染み付いているのではないでしょうか。一方で先生方は未来のこと。否定はしませんが、生徒は「ただ書かされている意識」だからこういった無意識的な作文になってしまうのではないでしょうか。文集作るよと言って機械的に書かせず、意味を考えてさせないとと思います。

未来への文集にする

   先生方が贈る言葉を載せているように、生徒も過去から未来へ視点を向けて作文を書くのも1つではないかと思います。「みんなといて楽しかった。」から「これからもみんなと繋がってたい。」へ。「部活楽しかった。」から「この経験を活かして次のステージでどうするか。」へ。私の作文も「どこまでするのか。」から「いつまでどうやりたい。」へ。過去としてだけではなく、過去があるから未来へどう続くかを書き残すことは大きな意味があるのではないでしょうか。

3.「時系列作文」

   「1年の時は水泳大会が印象に残っている。2年は文化祭。3年は修学旅行がとても楽しかった。」という時系列作文はよく見られるものです。義務教育の最終作文でこの書き方が非常に多いのは、作文教育の成果を物語っている気がします。

   報告文や感想文及び小論文など、種々の作文の書き方を教えないことで生徒はこの時系列作文しか書き方が分かりません。小学生とかだと「まだ勉強途中だ。むしろ今回の遠足がとても楽しくて新鮮な記憶として残っていて、いっぱい書けているんだろう。」と褒めることになりますが、義務教育の終幕を飾る場面でその形式が大半をしめるということに私は疑問を呈したい。

 

卒業文集の意味をもう一度再考して、生徒に何のために書くのか、そのためにどう書くことを心がければいいのか、しっかり伝えたいと思います。

 

 

佐藤

 

 

教育基本法を考える⑤

教育基本法を考える」シリーズも今回で最後になります。

 

今回は

法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

 

教育基本法第2章 教育の実施に関する基本

第9条 教員

について述べていきます。

 

概要整理

ここでいちど先に述べた条文の

概要を整理しておきましょう。

  • 教員は自らに課せられた崇高な使命を自覚し、その使命を遂行するに相応しい研究と修養に励まなければならない
  • 教員という身分は尊重され、適正な待遇を受けることができ、養成と研修の充実が図られなければならない

と私なりにではありますが、このように整理することが出来ます。

 

実態との乖離

では学校現場(実態)はどうなのでしょう?

新任教員の残業 月平均90時間 名古屋 ―運動部指導で若手に多忙のしわ寄せ(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース

上記は名古屋大学大学院の内田良准教授が書かれた記事です。

これによると名古屋市の新人教員は月平均90時間以上の残業を強いられている、ということが分かります。

あくまで新人教員なのでベテランになるにつれて残業時間は減っていくかもしれません。

が、新人教員が月平均90時間以上の残業を強いられているという事実を見過ごすことは出来ません。

このような事実から先に述べた条文第2項の

「その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに」

の文言が実際の学校現場では全く機能していないと言って良いでしょう。

教員の身分が尊重されているのであれば月平均90時間以上の残業を強いられることは無いでしょうし、月平均90時間以上の残業が待遇の適正と言えないことは明らかです。

 

養成と研修の充実

先に述べた条文の第2項にある

「養成と研修の充実が図られなければならない」

についても言及したいと思います。

学校現場では新人研修、主幹教諭研修、ICT研修など様々な研修が日々行われています。

このように研修が数多く行われているのは、養成と研修の充実を図る為であることは言うまでもないでしょう。

ただ

これらの研修は全て教育委員会、学校等が用意した言わば「トップダウン型」

に過ぎないと考えます。

もし仮に

本気で教員の養成と充実を図ろうとするのであれば「トップダウン型」である従来の研修ではなく

教員自らが自発的に研修を行う「ボトムアップ型」が相応しいと言えるのではないでしょうか。

 

ボトムアップ型」の研修が

望ましいのだけれども...

ボトムアップ型」の研修こそが教員の養成と研修の充実を図る為には相応しいことは確かではあるのですが

実際に学校現場で「ボトムアップ型」の研修を行うにあたって最も障壁となるのは、やはり

教員の多忙化

と言えるでしょう。

教員自らが自発的に研修を行おうと思っても、余りの仕事の多さに

トップダウン型」の研修に参加することで手一杯になっている、というのが現状ではないでしょうか。

 

意識の面から

教員の多忙化を考える

教員の多忙化を解決するにあたって

越えなければいけないハードルに関して

制度・意識の二面からアプローチする必要があると考えます。

ここで制度の問題に言及してもあまり意味はないので

意識の面からアプローチしたいと思います。

まずは教員自身が

  • 祝休日は休む
  • 定時に帰る

という意識を持つだけで、ほんの僅かではありますが

教員の多忙化を解決する兆しを見出すことが出来るのではないでしょうか。

 

追伸 「教育基本法を考える」シリーズを5回に分けて述べてきました。

私は今大学3年生ということもあり

大学の方で教員採用試験対策講座が日々行われ、同級生はその講座に出席し

教員採用試験合格に向けて鋭意勉強しています。

何とか教育法規を暗記しようと躍起になっている同級生を見る度に私は

「教育法規を覚えることは知識としては大切だけれども、それを覚えたところでどのような意味はあるのか?」

と真剣に聞きたいです。

教育法規の

  • 内容を理解し
  • 実際の学校現場に即しているのか
  • 即していないのであれば、具体的にどのような策を取れば良いのか

といったようなことを考える方が

よっぽど大切だと思います。

今一度教育法規を覚える意味を

考えるべきだと強く思います。

 

青野

 

 

 

 

 

教育基本法を考える④

教育基本法を考える」シリーズも4回目を迎え、いよいよ残すは5回目のみ、となりました。

 

今回は

私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方自治体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。

教育基本法第2章 教育の実施に関する基本

第8条 私立学校

について述べていきます。

 

変わりつつある私立学校

皆さんは「私立」というワードから

どのようなことを想像しますか?

私自身は小学校から大学まで全て公立だということもあり

「私立」というワードから

  • 比較的裕福な生徒が通う
  • キリスト教など様々な宗教が経営している

という漠然としたイメージを抱いていました。

2つめにあげた「キリスト教など〜」は一旦置いておくとして

1つめにあげた

「私立=比較的裕福な生徒が通う」

というイメージを抱いている方はかなり多いと思います。

 

大阪の私学助成

先日大阪にある某私立高校にお邪魔させていただいた時、衝撃的なお話を聞きました。

「うちの学校の保健室には本当に困っている生徒の為に、地域の農家さんからいただいたお米を置いてあるんですよ〜」

この言葉を聞いた時

「私立は比較的裕福な生徒が通っているはずなのに、なぜ学校でお米を貰わなければならないほど困窮している生徒がいるのだろう?」

という疑問を抱きました。

保健室にお米が置いてある、とおっしゃられた先生に理由をお聞きすると、

大阪は私学助成がとても充実していて

  1. モデル世帯(※)で年収が590万円以下の生徒は授業料の家庭負担が実質ゼロ
  2. 30万円程度の入学に関する諸費用を支払うことが出来ればOK

となっているらしいです。

 

[※モデル世帯とは、4人世帯(夫婦どちらか一方がが働き、子ども2人(16歳以上19歳未満1人、16歳未満1人))のケースのことを指します]

 

広がる私学助成制度

「私学助成」とgoogleで検索すると

大阪は勿論のこと

愛知、東京、兵庫、広島...

と様々な自治体が私学助成制度に取り組んでいることが分かります。

もちろん自治体によって

程度の差があるとは思いますが

確実に私学助成制度が日本に広がってきていることが分かります。

 

すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

上記は

教育基本法第1章 教育の目的及び理念

第4条 教育の機会均等

を引用したものになります。

 

私学助成制度を考えるうえで

反対意見として

  • 私立を選んだのは生徒自身だし、個人の選択に自治体からお金を使って支援する必要はあるのか?

があげられると思います。

確かに私立という道を選択したのは生徒自身ですし、選択には責任が伴うことももちろん分かります。

ただ

先に述べた条文にもある通り

「ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会」

が全ての生徒に与えられています。

 

教育を受ける機会を均等にしてあげる為にも日本に私学助成制度が更に広まっていくことを切に願います。

 

青野

 

教育基本法を考える③

教育基本法を考える」シリーズも第3回目に突入しました。

 

今回は

教育基本法第2章 教育の実施に関する基本

第7条 大学の第2項である

大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性は尊重されなければならない。

の条文を考えていきます。

 

大学の自主性、自律性?

大学の自主性、自律性と言われても今ひとつピンと来ない方が私含めていると思います。

ここで上記の条文の第1項を見てみると

大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を追究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

とあります。

 

大学の果たす役割

今までにあげた2つの条文を鑑みると

大学には

  • 高い教養と専門的能力を培い、それをもとに新たな知見を創造する
  • 加えてその知見を社会に提供することで、社会の発展に寄与

以上、大雑把ではありますが、2つの役割があることが分かります。

このような役割を果たす為に大学には自主性、自律性が保証されており、さらに研究の特性が尊重されている、ということでしょう。

 

安全保障技術研究推進制度

しかし、先に述べたような大学の自律性、自主性が徐々に失われつつあります。

ここで防衛省が2015年度より開始した軍事転用可能な基礎研究に助成する安全保障技術研究推進制度の予算の変化を見ていきましょう。

  • 2015年度:3億円
  • 2016年度:6億円
  • 2017年度:110億円

 

いかがでしょうか?

2016年度から2017年度にかけて安全保障技術研究推進制度の予算が約20倍になっていることが分かります。

 

この結果から考える

確かに基礎研究は民間利用であるものだとしても、異なる観点から見れば軍事に転用可能なものは山ほどあると思います。

 私は何も軍事に転用可能なものの基礎研究をやめてしまえ!

などと言っているわけではありません。

ただ安全保障技術研究推進制度の予算の変化を見ると、防衛省があからさまに大学を軍事研究の場にしようとしている現状に警鐘を鳴らしているのです。

 

大学の現状

ここまで読者の皆さんは

「そんな制度に頼らなくても大学の研究費を使えばいいんじゃないの?」

と思われるかもしれません。

話を分かりやすくする為にここでは国立大学のみに焦点を絞って述べると...

2004年に国立大学は法人化され、

以降、毎年国からの国立大学運営費交付金は削減され続け、ここ10年程度で総額1200億円以上が削減されています。

このような現状を踏まえると、とても大学の研究費に頼れる状況でないことが分かるでしょう。

 

解決策

大学の現状を述べるだけで終わると結局のところ政府を批判するのみで終わってしまいます。

それでは全く生産性がないと思うので、ここでは私なりにこの現状を打破する策として

  1. 大学の数を厳選する
  2. 研究者自身が声をあげる

の2つを考えました。

まず今現在、大学の数が余りにも多すぎます。だからこそ大学に対する国からの補助金が分散してしまいます。であるならば大学の数を厳選し、国からの補助金がなるべく分散しないような取り組みが必要だと思います。

次に大学の研究者自身が下からの突き上げで声をあげる必要があると思います。

前回のブログでも述べましたが、今はネットという手段を使うことで私含めた政府外の人間が声をあげやすい環境にあります。

現状に憂うだけでなく、何かしらのアクションを起こすことの重要性を再考する必要があるでしょう。

 

青野

 

 

 

 

 

vs 学習指導案

   自分が経験していても、やるもんだと教えられても、その「当たり前」と考えるものに意味はあるのか、一歩立ち止まって考え直すことを忘れてはならないと思いブログも書いています。今回は学習指導案についてです。

苛まれる実習生

   教育実習生は必ず学習指導案と闘うことになります。そもそも学習指導案とは

教員(学習支援者)が授業・講習などをどのように進めていくかを記載した、学習指導・学習支援の計画書

のことです。実習では必ず学習指導案を作成し、担当教諭に提出・相談の上、授業構想を進めていくことになっています。一見重要な役割で実習生が悩むのも無理はないと思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、内容とは全く違うところで苦しめられることになっています。

  それは形式です。原稿用紙の時もありましたが、形式大好き教員が実習生の担当だとこれを教員の意向に沿うよう語尾やニュアンスばかり手直しする羽目になります。ですが、学習指導案の出番は授業構想時と研究授業の資料としてだけです。それなのに形式厳守のため、想像を超える労力と手間を吸い取るクッキングペーパーとなっていることはお近くの実習生を見ると分かります。百聞は一見に如かず。

   原稿用紙の時と一緒ですよね。形式は大好き!守ってもらわなきゃ困る!といいながら、実際の意味は薄い。だからこそ教員ごとに些細な違いが多くあるのではないでしょうか。「形式だけを指摘してくる者は力がない。」という、ある先生の言葉が印象的でした。

   要らないんじゃない?と率直に思います。授業内容について考えるなら形式にそこまでこだわらず、もっと具体的な資料や実際に使う学習材を用いたり模擬授業を10分でもするべきだと思うのです。研究授業の際にハンドアウトとして提出するためでも実際見に来られる先生方は授業内容や生徒の顔や様子を見ることになり、結局指導案自体は一瞥だけで、ゴミ箱という「封印の黄金櫃」行きではないでしょうか?

   でも、指導案を作るのは通例となっているので変えがたい。そこならあの紙切れを有効に活用するためオープンソース化すべきだと思うのです。

指導案にも役割を

   『千と千尋の神隠し』の湯屋と一緒で、指導案も作るなら仕事させろという話です。

   すでにSENSEI NOTEやEDUPEDIAなどを有効に活用されている先生方もいらっしゃると思いますが、あの感じです。どうせ作るならゴミ箱に捨てる前にPDFにでもスキャンして学校毎に蓄積していけばいいんじゃないかと。そうすれば一人での実習でも代々の実習生(先輩教員)が考えた授業を参考にしたり、自分の授業案と比較することができます。教員になろうという熱意をもって作成されたものは、後輩を育てる意識の無い教員よりよっぽど味方になってくれるはずです。絶対捨てるの勿体無いです。(残念ながら教育実習は現場にとって「面倒」だと考えるきらいが、教員や大学にあるようです。もちろん手を尽くしてくださる先生方も多くいらっしゃったので…この点はまた触れていきたいと思います。)

   私事ですが、今年度のゼミの成果もオープンソース化してしっかりと形に残します。来年のゼミの参考になればな…。自分で振り返ることもすぐできるので頑張ります。

  

佐藤

   

   

作文のこれから

   以前は非難轟々の原稿用紙について触れました。今回はその原稿用紙を用いる「作文」について述べていきます。

   学校の作文といえば、読書感想文と行事作文の二大巨頭を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。とりわけ記憶に残っている後者に焦点を当てていきましょう。

   行事といっても文化祭・体育祭・修学旅行・合唱コンクールなどなど様々です。これらは現行の学習指導要領において特別活動と位置づけられ、

望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,自己の生き方についての考えを深め,自己を生かす能力を養う。

という目標のもと実施されています。生徒からしてみれば授業も休みになるうえ楽しいことづくめの特別活動ですが、しっかりとした目的があってなされていました。

   実はこの特別活動が世界の注目を集めているのです。2015年の朝日新聞も「『特活』世界が注目 」との見出しを掲げて特集しています。クラスみんなで協力して何かを進め、成し遂げることで生徒が主体的に成長していく方法となる行事が海外では当たり前ではないこと、日本はその活動を実践する最右翼だということをここではおさえておきます。

特別活動の作文

   そんな特別活動の価値が見直されている今だからこそ、行事ごとの作文の意味も見直すべきではないでしょうか。何気なく、書くことが「当たり前」だからなんの疑いもなく教師は書かせ、生徒は書いていた行事の作文は、いわばPBLのレポートのようなもの。自分たちが行事を通してどんなことを協力し、何を成し遂げたのか。行事の前後で何が変わったのか。この点をしっかりと生徒に意識させながら、一人一人が自分に向き合って作文を丁寧に認めていくべきだと感じます。作文を課す担任は、作文を「書く意味」をよく吟味して課さねばなりません。

   私事ですが教育実習中、母校は水泳大会の時期でした。一位を取ったクラス担任の先生と印刷室でお会いして話していたところ、ちょうど学級通信を印刷されていたので一部頂きました。その学級通信は、生徒に対して「一位を取って浮かれて授業を怠けている君たちはいけない。大会の意味や一位という結果をもう一度考え直しなさい。」という内容です。多角的に生徒の意識を刺激することは大切で、こういった学級通信も良い方法だと自分の引き出しにそっとしまいました。作文はなおのこと、この点について生徒が自省することができるのではないでしょうか。(文章の書き方を教える良い機会にもなりますし…)

   自分が生徒のとき書いていたから「当たり前」「書いたら終わり」と考えず、一歩立ち止まってその意味を考え直して質を上げていきたいと思います。