滲み出る思想
筆者側が伝えたい思いや考えがどんな文章にも込められていると考えていました。
しかし必ずしもそうではないとその考えを再考させてくれる言葉に出会ったのは、案外いつか忘れたほど前だったりします。その時は「あ〜、確かに道楽。🦀」と頷いただけでしたが、今になってそれが身に染みてきます。
自分は、読者にこういうことを訴えようという気持ちで本は書いていません。いつも頭の中にあるのは、一人でも多くの人に読んでもらいたい、一冊でも多く売れてほしい、その一念です。
ただ、自分自身の中にある「思想」というのは自然と醸し出されるものです。あとから読み返してみると、意識して書いていなかったのにどことはなく自分の主張が盛り込まれているものです。
これを思い出してから今まで書いていたブログを読み返してみると、もう、サンシャイン池崎の「大きな剣持ってる人あるある」並みに押しつけてくる、主張してくるものがありました。
ぼく、色々考えててすごいでしょ!ドヤァ^_^
今は自粛しているあの方よりも、ぼくイケメンのナルシストっぷりです。誇示することでしか自分の考えを示すことができないのは、ちょっとまずいなぁ…と。
でもそのまま思ってても仕方がない!過去のことはこれからの栄養にして、これからを進めていきます。自省は一番の教材だとある方も語ってました。
でもこんな考え方に至ったのは、最近では二月に行った勉強会の影響が大きい気がします。「教え方とか方法は注目されるけど、どんな在り方かは見落とされがちでは?」という問いかけで、自分の在り方を省みたのが今への転換点でした。今は在り方の中でも自分のセルフエスティームを高めることを進めていますが、このことについてもいくらか触れる気がします。
井戸の中から出ても、井戸を覗き込む蛙にならないよう気をつけます。
湿っぽくなりましたが、何でもプラス思考で!
1ヶ月ブログを書き続けます!!!
お久しぶりです。
約1ヶ月ぶりの投稿になりますね。
前回は半ば見切り発車的に
ブログの投稿を始めたこともあり
3日坊主ならぬ約15日坊主になってしまいました。
前回の反省も踏まえ
今回は「3月1日〜3月31日まで」
というように期間を決めて
日々思ったことや考えたこと等を
投稿していきたいと思います。
今後ブログを投稿していくにあたり
- 意義
- 目的
- 目標
の3点を1度整理していきます。
まず意義について。
- 語彙量を増やす
- 頭の中で考えたり思ったりしたことを言語化する
頭の中で考えたり思ったりしたことをまずはブログという形で言語化し
その言語化したものをより分かりやすく伝える為に自らの語彙量を増やしていくことを本ブログの意義とします。
次に目的について。
本ブログを投稿することで
僕が考えたり思ったりしたことを
言語化し出来る限り多くの方に知ってもらう、ことを本ブログの目的とします。
そして知ってもらうことで
僕が考えたり思ったりしたことに
突っ込みを入れてくれる人間がいれば
僕自身の考えも深まりますし
3/1現在240人ほどのフォロワーがいるので
240方面からの突っ込みが考えられると思います。
多方面からの突っ込みを楽しみにしています。
最後に目標について。
前述した通り前回は見切り発車的に始めたブログだったので
目標も随時更新していったのですが
今回は1ヶ月を通じた目標をここで設定してしまいたいと思います。
「アクセス数 5000!!」
上記を本ブログこれから1ヶ月の目標としていきます。
前回は約15日ほど更新して
800ほどのアクセス数があったので
単純計算すると1ヶ月で1600になるのですが
目標は低すぎても面白くないので
今回はあえて高めの目標設定にしました。
以上述べたことが本ブログを始めるにあたって必要かな、と思われる事項です。
これだけでは中身が殆ど無いも同然なので
次回予告をして終えたいと思います。
次回は
「大学生の常識と大人の常識?」
について僕なりに考えたり思ったりしたことを述べていきます。
青野
「書く」技術の向上
「すいかと桃を3つ買ってきて。」
これを伝えられた時にあなたはすいかと桃とをそれぞれ何個買ってきますか?
- すいか1 桃3
- すいか3 桃3
- すいか1 桃2
- すいか2 桃1
この書き方では4通りの解釈が考えられます。伝えた側の考えが上記の1.だった場合、「すいかと桃を3つ買ってきて」をどう変えれば正確に伝わるでしょうか。
- 桃を3つとすいかを買ってきて
- すいかと、桃を3つ買ってきて
- すいか1つと桃を3つ買ってきて
というように書き言葉であればこの3通りが私は浮かびました。特に2つ目は書き言葉だからこそできるもので、話し言葉として発してしまうと元の言葉と変わりません。
こういった点から「作文は自分が話そうと思っている言葉をそのまま書けばいいよ。」というのは間違いで、話すこと・書くことを分けて考える必要があることが分かります。
また、これはある2年生用の教科書に載っていた1ページです。単元目標は「文法的観点から、表現を見直すことの意義を理解する。」となっています。「意義を理解する」にとどまり、想定時間はたったの1。これについての個人的な考えを以下で述べていきたいと思います。
知識としての技術
自分では分かっていても相手には違った内容で伝わっては意味がありません。何度もブログで書いていることですが、文章には「分かりやすく書く」原則が常につきまといます。そのためには形式も必要ですし、こういった表現を見直すことも重要になってきます。
アクティブラーニングでもよく焦点を当てられるのは「話す」ことではないかと感じています。もちろんこれも大切ですが、正確なコミュニケーションには書く表現の技術も高める必要があるのではないでしょうか。考えをまとめて意見を発するにしても、自分の意見が相手に正確に伝わるように表現を工夫する必要があり、知識として理解するだけでなく実際に文章を認める上で活かされなければならない。知識を作文に使える技術にできるようアプローチしなければいけないと思います。
「国語」としての表現技巧
教科書のページで書かれていたのは
- 並立の関係
- 呼応の副詞
- 文節・連文節の対応
でした。表現技巧といえば他にも倒置法や対句など多岐に渡ります。正確に書いて伝えるためには句読点や段落まで形式も入ってくる技術とくくりましょう。
これが国語の知識として扱われている場面が非常に多いように思います。例えば対句であれば
表現形式が同一または類似している2つの句を相対して並べ、対照・強調の効果を与える表現。詩歌や漢詩文などに用いられる。
とあります。自分達の生活とは離れ、教科書に載っている詩歌について学ぶときに「あそことここが対句になっているよ。」という知識として教えられる場面が多いのではないでしょうか。自分で文章を認める際に対句を使ったことが何度あるか考えてみると、かなり少ないのではないかと思います。
自分の意見を伝えることが注目されている中で、こういった表現技巧から句読点の打ち方までは時間をかけてもいい内容のはずです。すいかと桃の単元は1時間想定としてありましたが、小説や説明文のオマケとして扱うのではなくもっと充実させたいと考えています。ジグソー学習形式で複数の違った文をそれぞれ生徒に考えさせてワークシートを完成させるだとか作文の中で意識させたりと、もっと教え方を学んでいくよう努めます。
佐藤
豊かな人間性と創造性?
「教育基本法を考える」シリーズを終えたところで
今回は
豊かな人間性と創造性?
というタイトルで論を進めていきたいと思います。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性の創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
「教育基本法を考える」シリーズでは教育基本法の条文から様々なことを考えてきましたが
今回は上記に挙げた教育基本法の前文から考えていきます。
豊かな人間性と創造性
教育基本法の前文に
「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに」
という文言があります。
生徒に豊かな人間性と創造性を備えさせる為には
教員側が豊かな人間性と創造性を備えておく必要があることは言うまでもないでしょう。
2つのアプローチ
教員側が豊かな人間性と創造性を備えておく必要がある!
と述べましたが具体的にどのようにすれば教員に豊かな人間性と創造性とを備えさせることが出来るのでしょう?
この問いに対する答えは
大きく分けて2つのアプローチが考えられると考えます。
- 教職課程
- 教員採用試験
どちらにしても教員になる前段階で
豊かな人間性と創造性とを備えておく必要があると考えます。
教員になってから
豊かな人間性と創造性を備えられれば良いのですが「教育基本法を考える⑤」でも述べた通り、実際の学校現場で働いている教員は多忙を極めており
とても豊かな人間性と創造性とを備えるに相応しい時間を取ることが出来ない、というのが現状です。
制度との齟齬
先に述べたような現状より
- 教職課程
- 教員採用試験
の2つのアプローチから教員の豊かな人間性と創造性とを備えさせるに相応しい課程・試験にする必要があります。
ただ実際のところ
教職課程で豊かな人間性と創造性とを備えさせるような授業はありませんし
教員採用試験に於いても覚えたことをアウトプットすれば一次試験は突破できる、という状況になっています。
このような状況で豊かな人間性と創造性を生徒に備えさせるに相応しい教員となるには
現在の教職を志す学生を取り巻く制度のままではかなり困難と言えるでしょう。
ではどうすれば良いのか?
先に述べたような状況を踏まえると
- 制度の問題だからどうしようもないのでは?
という意見が出てくることが予想されます。
確かに制度の問題なので
一個人でどうにかするのはかなり困難になるでしょう。
ただ
豊かな人間性と創造性を備えるに相応しい教職課程と教員採用試験になっていない、ということを自覚するだけでも
かなり変わってくるのではないでしょうか。
青野
少年よ大志を記せ(昨日の続き)
昨日、卒業文集について考えたことの補足をしようかなと思います。
タブーの蔓延と質の低下
卒業文集について発見があったり、自分の文章が見つかって色々と物思いにふけった昨日でしたが、もう少しこれについて考えてみました。 ネットもサーフィンしてみましたが頻繁に「恥ずかしいことは文集に書くな。」という文言を目にしました。口が裂けても言えない、というかよくこんなのを載せるなと呆れたものです。
「自分や家族だけでなく、友人やその家族も読む文集だから無難に書こう。」「一生残るものだから恥をかかないように気をつけよう。」など、無難のススメが跋扈していました。それでは作文の意味がないはずです。「自分にしか分からないことを誰にでも分かるように」書くことが作文執筆の理念だと考えているので(井上ひさし氏をはじめ、多くの方も仰っています。)、誰にでも当てはまるような所謂普通のことを載せても気持ちが伴わないし内容も面白み0です。作文を通して何を伝えたいのか、伝えようとしないなら大人になった時に読んでも意味がありません。それなら文集なんて作らず、ボールペンを一本でも記念に配った方がいい。作文のタブーがネットに溢れてしまっている気がします。
卒業文集とは外れますが、紋切り型の文章や表現を書くことも避けています。自分の感情や意思を書き記すことを避けても伝わるものはすくないはずです。本当に自分がどう思ったのかを文字にすることで、良い作文が生まれるのではないでしょうか(この部分が難しいからこそ、上記の理念が最も難しい原則でもあります。)。
大志を記せ
私の中学のように全員思い出を書いている学校もあれば、クラスごとに「将来の夢」といったテーマを決めて書くところもあるようです。そうすると必ず未来について書かなければいけないので一つの方法をかなと思いますが、このリンクをご覧ください。
https://matome.naver.jp/m/odai/2137061759032983301
スーパースターの卒業文集です。年収いくらもらいたいなど大成していなければそれこそ上記の「恥ずかしい」内容ですが、皆自分の思うありのままの将来を語るだけでなくとても具体的です。
全員が全員具体的に書けばいいというものではないと思いますが、昨日述べた「思い出でも過去から未来へ視点を向ける」時に具体的であれば、次なにをすべきかを考えられ作文を読んでもより振り返ることができるはず。
作文とは離れますが教室に貼ったりする目標も「テストの点を平均以上にする。」から「テストで合計300点を取る そのために〜をする」や「部活を頑張る。」から「100mで12秒を切る そのために〜をする。」といったように、具体的かつ次の行動を分かるようにすることが質を上げられる方法なのではないでしょうか。
思い出の卒業文集?
ブログを始めてから一週間が過ぎ、目標のアクセス数500を達成できました。三日坊主になることなくこの先も続けていきたいと思います。が、今までは些かまとまりがなさ過ぎたかなと。汗。これからしばらく、私は「作文教育」に関連することを考えていきます。今日は卒業文集についてです。
生徒全員が
書いたことのある作文じゃないか
卒業作文は小中学校卒業時に必ず認める作文であり、かつて生徒だった私達全員が書いたことのあるものではないでしょうか。もちろん私も書いていたので探してみたら、ありました。押入れの肥やしになっていました。写真は中3の私が書いたものです。
今はマラソンとトレイルランをぼちぼちしてます。4月には100kmです。
文集ですので学年全員分の作文が載っている訳です。
自分が経験していても、やるもんだと教えられても、その「当たり前」と考えるものに意味はあるのか、一歩立ち止まって考え直すことを忘れてはならない。
というのが 私のブログ記事のポリシーですが、この卒業文集について考えてみました。
大半の人は私の様に小中学校での思い出を書き綴ったのではないでしょうか。みなさんと自分の卒業文集を否定する訳ではありませんが、思い出を書き綴るってどうなの?と今回おもったのです。
「思い出」というブラインダー
「思い出」というとなんだかきらびやかなもので誰にとっても汚されない、汚してはいけない良いものだという印象がありませんか?この崇高な思い出というブラインダーを取り除いて卒業文集を考えてみると、3つ疑問が湧いてきました。
- 思い出だからいいの?原稿用紙の書き方無視
- 未来と過去の矛盾
- 作文教育の賜物「時系列作文」
以下でそれぞれ詳しく述べていきます。
1.思い出だからいいの?
卒業作文の意味といえば、「大人になって読み返す時に思い出を回顧するため」が一般的な答えでしょうか。みんながみんな思い出を綴る訳ですが、ここでも原稿用紙が登場します。そしてコバンザメのようにこの紙に必ず付いてくるのが形式でした。この形式が、卒業作文では無視されているのです。
同級生の作文を見ると、段落が一切ない・文字とカギ括弧が1つの枠内に合体している・題名も3文字下げていない・段落の最初を1文字下げていない等、多岐に渡ります。これらは定期テストで作文があると格好の餌食。減点対象です。なぜ、先生方は訂正させなかったのでしょうか。「思い出書いてるんだからそんな野暮なことゆうな!」でしょうか。
自分にしか分からないことを誰にでも分かりやすく書くことが大切で、それには形式が必要だということは他記事で述べました(また今度再考・改訂版の記事を出そうと思います。)。文集の読者が未来の自分だとしても、未来の自分にとっても分かりやすく書くべきだと思います。普段から厳密に守らせている形式を使わずして、いつ使うというのでしょうか。これを考えると原稿用紙の形式厳守と採点って本当に意味のない指導だなと感じます。集大成である作文にも全く反映させられていません。
2.未来と過去の矛盾
卒業文集には生徒の作文だけでなく先生方からの贈る言葉が載っています。また、私の卒業文集のタイトルは「未来へ翔け 61期生」です。「ん?」とここで疑問です。
- 先生方→贈る言葉・未来
- 生徒 →思い出・過去
それぞれが全く逆のことを載せています。思い出を回顧するのは他にアルバムという具体的なものがあるなにも関わらずです。「卒業文集は過去の思い出を書くもの」という通例が染み付いているのではないでしょうか。一方で先生方は未来のこと。否定はしませんが、生徒は「ただ書かされている意識」だからこういった無意識的な作文になってしまうのではないでしょうか。文集作るよと言って機械的に書かせず、意味を考えてさせないとと思います。
未来への文集にする
先生方が贈る言葉を載せているように、生徒も過去から未来へ視点を向けて作文を書くのも1つではないかと思います。「みんなといて楽しかった。」から「これからもみんなと繋がってたい。」へ。「部活楽しかった。」から「この経験を活かして次のステージでどうするか。」へ。私の作文も「どこまでするのか。」から「いつまでどうやりたい。」へ。過去としてだけではなく、過去があるから未来へどう続くかを書き残すことは大きな意味があるのではないでしょうか。
3.「時系列作文」
「1年の時は水泳大会が印象に残っている。2年は文化祭。3年は修学旅行がとても楽しかった。」という時系列作文はよく見られるものです。義務教育の最終作文でこの書き方が非常に多いのは、作文教育の成果を物語っている気がします。
報告文や感想文及び小論文など、種々の作文の書き方を教えないことで生徒はこの時系列作文しか書き方が分かりません。小学生とかだと「まだ勉強途中だ。むしろ今回の遠足がとても楽しくて新鮮な記憶として残っていて、いっぱい書けているんだろう。」と褒めることになりますが、義務教育の終幕を飾る場面でその形式が大半をしめるということに私は疑問を呈したい。
卒業文集の意味をもう一度再考して、生徒に何のために書くのか、そのためにどう書くことを心がければいいのか、しっかり伝えたいと思います。
佐藤
教育基本法を考える⑤
「教育基本法を考える」シリーズも今回で最後になります。
今回は
法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。
教育基本法第2章 教育の実施に関する基本
第9条 教員
について述べていきます。
概要整理
ここでいちど先に述べた条文の
概要を整理しておきましょう。
- 教員は自らに課せられた崇高な使命を自覚し、その使命を遂行するに相応しい研究と修養に励まなければならない
- 教員という身分は尊重され、適正な待遇を受けることができ、養成と研修の充実が図られなければならない
と私なりにではありますが、このように整理することが出来ます。
実態との乖離
では学校現場(実態)はどうなのでしょう?
新任教員の残業 月平均90時間 名古屋 ―運動部指導で若手に多忙のしわ寄せ(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース
上記は名古屋大学大学院の内田良准教授が書かれた記事です。
これによると名古屋市の新人教員は月平均90時間以上の残業を強いられている、ということが分かります。
あくまで新人教員なのでベテランになるにつれて残業時間は減っていくかもしれません。
が、新人教員が月平均90時間以上の残業を強いられているという事実を見過ごすことは出来ません。
このような事実から先に述べた条文第2項の
「その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに」
の文言が実際の学校現場では全く機能していないと言って良いでしょう。
教員の身分が尊重されているのであれば月平均90時間以上の残業を強いられることは無いでしょうし、月平均90時間以上の残業が待遇の適正と言えないことは明らかです。
養成と研修の充実
先に述べた条文の第2項にある
「養成と研修の充実が図られなければならない」
についても言及したいと思います。
学校現場では新人研修、主幹教諭研修、ICT研修など様々な研修が日々行われています。
このように研修が数多く行われているのは、養成と研修の充実を図る為であることは言うまでもないでしょう。
ただ
これらの研修は全て教育委員会、学校等が用意した言わば「トップダウン型」
に過ぎないと考えます。
もし仮に
本気で教員の養成と充実を図ろうとするのであれば「トップダウン型」である従来の研修ではなく
教員自らが自発的に研修を行う「ボトムアップ型」が相応しいと言えるのではないでしょうか。
「ボトムアップ型」の研修が
望ましいのだけれども...
「ボトムアップ型」の研修こそが教員の養成と研修の充実を図る為には相応しいことは確かではあるのですが
実際に学校現場で「ボトムアップ型」の研修を行うにあたって最も障壁となるのは、やはり
教員の多忙化
と言えるでしょう。
教員自らが自発的に研修を行おうと思っても、余りの仕事の多さに
「トップダウン型」の研修に参加することで手一杯になっている、というのが現状ではないでしょうか。
意識の面から
教員の多忙化を考える
教員の多忙化を解決するにあたって
越えなければいけないハードルに関して
制度・意識の二面からアプローチする必要があると考えます。
ここで制度の問題に言及してもあまり意味はないので
意識の面からアプローチしたいと思います。
まずは教員自身が
- 祝休日は休む
- 定時に帰る
という意識を持つだけで、ほんの僅かではありますが
教員の多忙化を解決する兆しを見出すことが出来るのではないでしょうか。
追伸 「教育基本法を考える」シリーズを5回に分けて述べてきました。
私は今大学3年生ということもあり
大学の方で教員採用試験対策講座が日々行われ、同級生はその講座に出席し
教員採用試験合格に向けて鋭意勉強しています。
何とか教育法規を暗記しようと躍起になっている同級生を見る度に私は
「教育法規を覚えることは知識としては大切だけれども、それを覚えたところでどのような意味はあるのか?」
と真剣に聞きたいです。
教育法規の
- 内容を理解し
- 実際の学校現場に即しているのか
- 即していないのであれば、具体的にどのような策を取れば良いのか
といったようなことを考える方が
よっぽど大切だと思います。
今一度教育法規を覚える意味を
考えるべきだと強く思います。
青野