脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

弱さに価値がある?

 

「その人の能力・特性に応じたサポートが出来るようにこちら側がコーディネートをする」

 

またまた先日参加した
子どもの貧困対策レベルアップ研修会からの引用になるのですが、、、

 

それほど僕にとって
学びの多い研修会だった。
ということにしておいていただけると有り難いです。

 

僕自身は前回のブログでも述べた通り
学生が中心の有志団体の代表を務めています。

 

その中で
同じ立場・身分である学生をまとめていくにあたり
常に

【自分自身が当たり前に出来ること】

を基準に考えてきました。

 

その中で

【自分自身が当たり前に出来ること】

の半分すらも出来ない学生を見ては攻撃し、排斥し
自らの行いを合理化する為に
「あいつは出来ない奴だ」
と自分自身に言い聞かせてきました。

 

そのような
いわゆる独りよがりになっていた中で冒頭で述べたような言葉を聞いたので
正直頭を金づちで殴られたような衝撃を受けました。

 

弱さに価値がある?

加えて昨日、一昨日駒澤大学で行われた
『第12回全国若者ひきこもり協同実践交流会』
の基調講演で

ある方がこのように
おっしゃられていました。

 

「弱さで繋がる。弱さにこそ価値がある。」

 

この場合の弱さが何を指すのかは
各々の捉え方によってかなり異なってくると思いますが
そこは一旦置いておくとして

 

人間は
全て弱い存在である


と僕は考えています。

 

このような立場に立つと
弱い存在である人間ひとりができることはとても限られていて
だからこそ他の人とお互いの弱みで繋がり
お互いの弱みを補填し合えるような関係作りをこれからは
どの分野に於いても求められるのではないでしょうか。

 

同じ立場に立つと...

冒頭で述べた言葉も

おそらくこのような立場に立っていると僕は思います。

 

全て人間は弱く

能力・特性にも差異があることは

当たり前なのだから

そのことを踏まえたうえで

各々の能力・特性を補填し合えるような

関係作りを構築していこうよ!

と言う僕に対するメッセージなのかな

と勝手に思ったりもしています笑

 

自省も含みますが
やはり人間が全てをひとりでやろうとすると
かならずどこかで限界が来て
限界が来るとどうなるか、と言うと
他との対立で自らを律しようとしがちになります。

 

同じ目標を持った他と批判し合うことで
生まれてくるものはあると思いますが
他とただ対立するだけでは何も
得られるものはありません。

 

なので
これからは
お互いの弱みを認め合い
そしてその弱みをベースとして

各々の能力や特性を理解したうえで
それを補填し合えるような関係

いわば

「できることもちより」ネットワーク

(これも先ほど述べた方の言葉からの引用になります)の構築が

必須になってくるのではないでしょうか。

 

自分らしくない

   前回は思想の話でした。今回は内容についてです。

    「当たり前と思っていることを考え直していく」という姿勢はあったのでいいねやシェアで応援してくださる方もいらっしゃいました。ですが自分が尊敬している方のブログを読み漁っていると、自分の「書き方」に疑問を持つようになりました。

   自分の興味関心から、文章教育がどうとか特別活動がどうとか色々と書いてきました。そもそも文章作成の思想が前回述べたようなものだったので当たり前ですが、今このブログ読み返してみると「書き方」が全く自分らしくありません。

   誇示のために書いていたようなものなので、自分の考えが正しいとする前提で根拠を色々と探したりしています。勉強会に参加するようになって別の勉強会で考えたことがまた別の会で繋がる実感があったり、自分の好きなものから学べることがあったりするのに、それを全く踏まえることができていません。

   変に形式ばったり難しく考えずに、自分のブログなんだから自分らしさを出して好きに書けばいい。むしろそれが自分の考えを伝えられる一番の方法なんだと気付きました。

   こういう考え方に至ったのもセルフエスティームにあります。なので、セルフエスティームとは何なのか・なぜ高める必要があるのかという点についてはこれから書かなければならないことだと思います。

  「 自分らしさ」と描きましたが、自分らしさって何でしょうか…。その辺について学び考えたことがあるので、次はこのことについて書いていきたいと思います。

   

大学生の常識と大人の常識?

 

「大学生の常識って世の中では完全に非常識だよね〜」

 

先日参加した
子どもの貧困対策レベルアップ研修会で様々な方からこのように言われました。

 

確かに僕がいま代表を務めている
つるっ子プロジェクト実行委員会でも
スタッフである大学生が
・連絡を無視する
・必要な報告をしない
といったようなことが何度か見られました。

 

常識と非常識?

先に述べたようなことは
明らかに【非常識】であり
大学生だからといって許されることではありません。

 

ただ大学生の《常識》全てを
【非常識】と捉えてしまって良いのでしょうか?

 

相手のことを
【非常識】としてしまうと

 

相手が為すことは全て間違いで
自分は何ひとつとして間違っていないのだ!


という一種の自己陶酔に陥りかねません。

 

「学校の常識は世間の非常識」?

これは学校と学校外の関係でもよくあることだと思います。


「学校の常識は世間の非常識」


という言葉を聞いたことがある人はかなり多いことと思います。

 

確かに
・小学校低学年はシャープペンシルを使ってはいけない
・集会の時は第一ボタンの上にあるホックをしめる
といったような学校では当たり前とされていることが
世間では当たり前とされていないことから


「学校の常識は世間の非常識」


と言われてしまっても致し方ない部分はあるかもしれません。

 

ただ先にも述べた通り
学校の《常識》を
世間の【非常識】と捉えてしまうと


学校が為すことは全て間違いで
世間は何ひとつとして間違っていない!

 

と言うこれまた一種の自己陶酔に陥ってしまいかねません。

 

解決策の提示

ではどうしていけば良いのでしょうか?

 

私個人の考えをひと言で端的に表すのであれば


常に《常識》を疑わなければいけない


です。

 

言葉で言うのは簡単ですが
私をはじめどうしても自分の為すことが全て正しいと思い
他を排斥することで自分の存在を確認したいという性を人間が持ち合わせているという点である意味致し方ない部分もあります。

 

なので
いきなり
常に《常識》を疑うのは難しいにしても

 

《常識》を疑わない
→相手の為すことを全て間違いと捉えてしまう
→一種の自己陶酔に陥る

 

という図式を理解しておくだけでも
かなり意義はあるのではないでしょうか。

 

 

滲み出る思想

   筆者側が伝えたい思いや考えがどんな文章にも込められていると考えていました。

   しかし必ずしもそうではないとその考えを再考させてくれる言葉に出会ったのは、案外いつか忘れたほど前だったりします。その時は「あ〜、確かに道楽。🦀」と頷いただけでしたが、今になってそれが身に染みてきます。

 自分は、読者にこういうことを訴えようという気持ちで本は書いていません。いつも頭の中にあるのは、一人でも多くの人に読んでもらいたい、一冊でも多く売れてほしい、その一念です。

 ただ、自分自身の中にある「思想」というのは自然と醸し出されるものです。あとから読み返してみると、意識して書いていなかったのにどことはなく自分の主張が盛り込まれているものです。

   これを思い出してから今まで書いていたブログを読み返してみると、もう、サンシャイン池崎の「大きな剣持ってる人あるある」並みに押しつけてくる、主張してくるものがありました。

 

ぼく、色々考えててすごいでしょ!ドヤァ^_^

 

今は自粛しているあの方よりも、ぼくイケメンのナルシストっぷりです。誇示することでしか自分の考えを示すことができないのは、ちょっとまずいなぁ…と。

   でもそのまま思ってても仕方がない!過去のことはこれからの栄養にして、これからを進めていきます。自省は一番の教材だとある方も語ってました。

   でもこんな考え方に至ったのは、最近では二月に行った勉強会の影響が大きい気がします。「教え方とか方法は注目されるけど、どんな在り方かは見落とされがちでは?」という問いかけで、自分の在り方を省みたのが今への転換点でした。今は在り方の中でも自分のセルフエスティームを高めることを進めていますが、このことについてもいくらか触れる気がします。

   井戸の中から出ても、井戸を覗き込む蛙にならないよう気をつけます。

   湿っぽくなりましたが、何でもプラス思考で!

1ヶ月ブログを書き続けます!!!

お久しぶりです。

 

約1ヶ月ぶりの投稿になりますね。

 

前回は半ば見切り発車的に

ブログの投稿を始めたこともあり

3日坊主ならぬ約15日坊主になってしまいました。

 

前回の反省も踏まえ

今回は「3月1日〜3月31日まで」

というように期間を決めて

日々思ったことや考えたこと等を

投稿していきたいと思います。

 

今後ブログを投稿していくにあたり

  • 意義
  • 目的
  • 目標

の3点を1度整理していきます。

 

まず意義について。

  1. 語彙量を増やす
  2. 頭の中で考えたり思ったりしたことを言語化する

頭の中で考えたり思ったりしたことをまずはブログという形で言語化し

その言語化したものをより分かりやすく伝える為に自らの語彙量を増やしていくことを本ブログの意義とします。

 

次に目的について。

本ブログを投稿することで

僕が考えたり思ったりしたことを

言語化し出来る限り多くの方に知ってもらう、ことを本ブログの目的とします。

 

そして知ってもらうことで

僕が考えたり思ったりしたことに

突っ込みを入れてくれる人間がいれば

僕自身の考えも深まりますし

 

3/1現在240人ほどのフォロワーがいるので

240方面からの突っ込みが考えられると思います。

多方面からの突っ込みを楽しみにしています。

 

最後に目標について。

前述した通り前回は見切り発車的に始めたブログだったので

目標も随時更新していったのですが

今回は1ヶ月を通じた目標をここで設定してしまいたいと思います。

 

「アクセス数 5000!!」

 

上記を本ブログこれから1ヶ月の目標としていきます。

 

前回は約15日ほど更新して

800ほどのアクセス数があったので

単純計算すると1ヶ月で1600になるのですが

目標は低すぎても面白くないので

今回はあえて高めの目標設定にしました。

 

以上述べたことが本ブログを始めるにあたって必要かな、と思われる事項です。

 

これだけでは中身が殆ど無いも同然なので

次回予告をして終えたいと思います。

 

次回は

「大学生の常識と大人の常識?」

について僕なりに考えたり思ったりしたことを述べていきます。

 

青野

 

「書く」技術の向上

「すいかと桃を3つ買ってきて。」

   これを伝えられた時にあなたはすいかと桃とをそれぞれ何個買ってきますか?

  1. すいか1 桃3
  2. すいか3 桃3
  3. すいか1 桃2
  4. すいか2 桃1

この書き方では4通りの解釈が考えられます。伝えた側の考えが上記の1.だった場合、「すいかと桃を3つ買ってきて」をどう変えれば正確に伝わるでしょうか。

  • 桃を3つとすいかを買ってきて
  • すいかと、桃を3つ買ってきて
  • すいか1つと桃を3つ買ってきて

というように書き言葉であればこの3通りが私は浮かびました。特に2つ目は書き言葉だからこそできるもので、話し言葉として発してしまうと元の言葉と変わりません。

   こういった点から「作文は自分が話そうと思っている言葉をそのまま書けばいいよ。」というのは間違いで、話すこと・書くことを分けて考える必要があることが分かります。

   また、これはある2年生用の教科書に載っていた1ページです。単元目標は「文法的観点から、表現を見直すことの意義を理解する。」となっています。「意義を理解する」にとどまり、想定時間はたったの1。これについての個人的な考えを以下で述べていきたいと思います。

知識としての技術

   自分では分かっていても相手には違った内容で伝わっては意味がありません。何度もブログで書いていることですが、文章には「分かりやすく書く」原則が常につきまといます。そのためには形式も必要ですし、こういった表現を見直すことも重要になってきます。

   アクティブラーニングでもよく焦点を当てられるのは「話す」ことではないかと感じています。もちろんこれも大切ですが、正確なコミュニケーションには書く表現の技術も高める必要があるのではないでしょうか。考えをまとめて意見を発するにしても、自分の意見が相手に正確に伝わるように表現を工夫する必要があり、知識として理解するだけでなく実際に文章を認める上で活かされなければならない。知識を作文に使える技術にできるようアプローチしなければいけないと思います。

「国語」としての表現技巧 

   教科書のページで書かれていたのは

  • 並立の関係
  • 呼応の副詞 
  • 文節・連文節の対応

でした。表現技巧といえば他にも倒置法や対句など多岐に渡ります。正確に書いて伝えるためには句読点や段落まで形式も入ってくる技術とくくりましょう。

   これが国語の知識として扱われている場面が非常に多いように思います。例えば対句であれば

表現形式が同一または類似している2つの句を相対して並べ、対照・強調の効果を与える表現。詩歌や漢詩文などに用いられる。

とあります。自分達の生活とは離れ、教科書に載っている詩歌について学ぶときに「あそことここが対句になっているよ。」という知識として教えられる場面が多いのではないでしょうか。自分で文章を認める際に対句を使ったことが何度あるか考えてみると、かなり少ないのではないかと思います。

   自分の意見を伝えることが注目されている中で、こういった表現技巧から句読点の打ち方までは時間をかけてもいい内容のはずです。すいかと桃の単元は1時間想定としてありましたが、小説や説明文のオマケとして扱うのではなくもっと充実させたいと考えています。ジグソー学習形式で複数の違った文をそれぞれ生徒に考えさせてワークシートを完成させるだとか作文の中で意識させたりと、もっと教え方を学んでいくよう努めます。

 

 

佐藤

 

豊かな人間性と創造性?

教育基本法を考える」シリーズを終えたところで

今回は

豊かな人間性と創造性?

というタイトルで論を進めていきたいと思います。

 

我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性の創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

教育基本法を考える」シリーズでは教育基本法の条文から様々なことを考えてきましたが

今回は上記に挙げた教育基本法の前文から考えていきます。

 

豊かな人間性と創造性

教育基本法の前文に

「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに」

という文言があります。

生徒に豊かな人間性と創造性を備えさせる為には

教員側が豊かな人間性と創造性を備えておく必要があることは言うまでもないでしょう。

 

2つのアプローチ

教員側が豊かな人間性と創造性を備えておく必要がある!

と述べましたが具体的にどのようにすれば教員に豊かな人間性と創造性とを備えさせることが出来るのでしょう?

この問いに対する答えは

大きく分けて2つのアプローチが考えられると考えます。

  1. 教職課程
  2. 教員採用試験

どちらにしても教員になる前段階で

豊かな人間性と創造性とを備えておく必要があると考えます。

教員になってから

豊かな人間性と創造性を備えられれば良いのですが「教育基本法を考える⑤」でも述べた通り、実際の学校現場で働いている教員は多忙を極めており

とても豊かな人間性と創造性とを備えるに相応しい時間を取ることが出来ない、というのが現状です。

 

制度との齟齬

先に述べたような現状より

  1. 教職課程
  2. 教員採用試験

の2つのアプローチから教員の豊かな人間性と創造性とを備えさせるに相応しい課程・試験にする必要があります。

ただ実際のところ

教職課程で豊かな人間性と創造性とを備えさせるような授業はありませんし

教員採用試験に於いても覚えたことをアウトプットすれば一次試験は突破できる、という状況になっています。

このような状況で豊かな人間性と創造性を生徒に備えさせるに相応しい教員となるには

現在の教職を志す学生を取り巻く制度のままではかなり困難と言えるでしょう。

 

ではどうすれば良いのか?

先に述べたような状況を踏まえると

  • 制度の問題だからどうしようもないのでは?

という意見が出てくることが予想されます。

確かに制度の問題なので

一個人でどうにかするのはかなり困難になるでしょう。

ただ

豊かな人間性と創造性を備えるに相応しい教職課程と教員採用試験になっていない、ということを自覚するだけでも

かなり変わってくるのではないでしょうか。

 

青野