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脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

どのような教師になりたいのか?

 

前回も

沢山のいいね!・コメントいただきありがとうございます。

 

今回は僕の思いが中心になりますが

読んでいただけると幸いです。

 

最近至る所にいって
僕が教職を志す学生であることを言うと

 

・どのような教師になりたいのか?
・どのような教育をしたいのか?
・生徒にどのようになって欲しいのか?

 

等々聞かれることが非常に多いです。

 

その度に何となく考えていたことを言語化して
伝えるようにはしているのですが
折角ブログという形で自分が考えていることを発信しているので
今回は僕自身が


どのような教師になりたいのか?


について少し深く掘り下げて述べていこうと思います。


僕の目指す教師像をひと言で表すと

 

「困っている生徒をひとりでも救っていく」

 

になります。

 

【困っている生徒】とは?

【困っている生徒】と聞くと


・勉強が出来ない生徒
・授業に集中出来ない生徒


等々のことを思い浮かべがちですが

僕自身の考える【困っている生徒】は

 

・孤独状態にある生徒

 

という風に捉えています。

 

勉強が出来ない、授業に集中出来ない等々も

学校生活を営むうえで

支障をきたすことは間違いないと思いますが
孤独状態にある生徒は
勉強が出来ない、授業に集中出来ない等々の段階に至ることすら難しいのでは、と考えています。

 

孤独状態にあることと
自己肯定感が低いこととはかなり密接に関連していると僕は考えています。

 

あくまで
前述したような立場に立つと
孤独状態にある生徒は
自己肯定感が低く
そもそも勉強が出来ない、授業に集中出来ないという前段階にいる、ということが理解しやすくなるのではないでしょうか。

 

であるので
僕はまず

僕の考える【困っている生徒】をひとりでも救い
勉強が出来ない、授業に集中出来ない等々の段階に立つことの出来るようにしたい、という思いを持っています。

 

学校という場のみで
【困っている生徒】を救うことが出来れば良いと思うのですが
学校という一つの機関で出来ることにも限界があると思います。

 

なので
何回か前のブログでも述べた通り
・学校として出来ること
・地域として出来ること
などと言った

各々が出来ることを持ち寄り
そこでネットワークを構築すること

が大切になってくると思います。

 

そこで僕は


「学校という一つの機関で出来ることは限られている」


という立場に立ったうえで
地域の方々と積極的に連携し
【困っている生徒】をひとりでも救うことの出来るような教師になりたい!

と強く思っています。

 

ただこれは現段階での僕の考えなので
今後色々な経験をする中で
日々マイナーチェンジをすることはあるかもしれません。

 

が、【困っている生徒】をひとりでも救う
という大まかな軸はぶれることなく今後も精進していきたい、とそう思っています。

『アナ雪』で考える個性

   先週の土曜日にテレビでやってましたが、皆さん『アナと雪の女王』ご覧になりましたか?僕は高校の時に後輩と観に映画館に行った以来2度目でした。ミュージカルがあれば絶対行くのに…と思っても、雪の城のセットとか大変ですかね…。

   今回は、前回の「個性」についてをアナ雪で考えながら進めて行きます。

※僕は個性を・生まれもった性質

                    ・それを踏まえてどう生きるか

と定義付けています。よろしくどうか。

雪の女王エルサの個性

   この人が色々やらかす度に物語が進み、この人が物語を終わらせる、マッチポンプ女王と言えなくもない彼女には「雪や氷を自在に操ることができる」という生まれつきの体質(個性)が。

   物語冒頭ではこの個性による氷をアナの頭に直撃させてしまい、実妹を殺しかけます。その後は両親によって「コントロールできるまで外に出ない」生き方を余儀なくされ、部屋に閉じこもることに。しかし結果的にコントロールどころかどんどん強大になってしまったところで戴冠式を迎えます。

   自分が持つ氷の体質を踏まえて、見られないよう知られないよう人と会うことを避けて生きるのも彼女らしさであり、個性でした。氷の体質という自身が生まれもった体質を封じ込める生き方をしているこの時期は、自分が自分でなく納得のいかない辛い毎日。

   挿入歌「生まれてはじめて」では

  • 一人でいたいのに×2
  • 誰にも会いたくない×2
  • この手で触れたらみんな気づいてしまう
  • 今日だけでもうまくやろう
  • 隠し通すのよ

と、エルサの歌詞はブルーに染まっています。

個性バレるの巻

   式後のパーティーで不意に氷を生み出しまくってしまいます。城内にいられずにエルサは森へ消えてしまい、有名なレリゴーシーンへ続いていく訳です。

   この場面ではエルサの周囲の人間が印象的でした。

  • アナ、氷にドン引き
  • 他国の宰相、怒り心頭(危険視・排斥)
  • 住民、エルサを初めて見る

とりわけ宰相は、想像だにしなかった氷の体質に驚き危険視。排斥しようとします。自分や周りが殺されるかもしれず危ないという理由です。異質な個性を持つエルサは悪者でしかありませんでした。

ありのままで

   隠していた氷の体質はバレてしまい、「もう別に自分隠さんでええや」と吹っ切れて氷の城を作る有名なシーンです。今まで自分を悩ませていた柵を取っ払い(納得いかず葛藤していた時分の手袋やティアラをポイ捨て)氷の体質を目一杯に使いながら自分を信じて生きていくことを選択。

   冒頭とこの辺は自愛や自己肯定感が関わってくると思いますが、今回は個性なので割愛。

   ここからまたアナを殺しかけたり捕らえられたりでなんやかんやあり、最終的には氷を他者のために生かして、氷の体質を隠さずありのままで自分らしさを保ちつつ皆と一緒に生活できるようになります。

個性についての悩みと問題

   冒頭では、氷の体質のために部屋にこもってしまうエルサがいます。この時彼女には

  • 氷止まらん
  • 体質隠して妹とも関わらずこもりきり

という2つの個性に関する悩みがあります。が、もしこの時に監督役がいたら、何に注目して解決しようとするでしょうか。自分がそうだったら、両方を見ます。

   氷の体質ばかり見ていると、「本当は出たいし幼い頃のようにアナと遊びたいけど体質を隠して管理するためにこもらなければいけない」という悩みを理解できない。こもっている生き方ばかり見ていると、悩みのタネである氷の体質を見逃してしまう。実際にアナは氷のことを全て忘れているのでドアをノックしまくりながら

「雪だるまつくろう〜ドアを開けて〜。一緒に遊ぼう!どうして、出てこないの〜?」

と見事に後者です(記憶ないのでしゃーないですけど…)。戴冠式まで何回ノックしたんでしょうか。自分だけが氷の体質と事故を覚えていてこもらざるを得ず悩むエルサと、悩みのタネが分からずに自分が避け続けられていると感じるアナのすれ違いがあります。

   一気に話が変わりますが自分が教壇に立ったり子ども・友人などと関わる時がきたら、個性についてはバランスに気をつけたいなと思います。その人が持つ性質を知りつつ、どんな生き方になって悩んでいるか。仮にジェンダー的な問題であれば性質のところにLGBTだとか性別についてが、生き方のところに制服や友人関係などが入るでしょう。性質と生き方の両方(悩みと悩みのタネを別のものと考える)を意識して考えるようにしていきます。

   他の人に対しても、アナ雪の宰相のような人間を認めてはならないと感じます。自分の予想外・嫌いな個性を理解せず排斥することは、人同士が共に生きていく中で一番の障害になるはず。気に入らない者は排斥するというその人らしさはまさに悪です。社会性も踏まえて直さなければならない「らしさ」であり「個性」です。

   唐突ですが僕が教師を目指す上で「安全安心な授業・クラスを作る」という理念もここに少しあります。

 

今日はちょっとこの辺で幕引きにしようかと思います。少し長くなりましたが、大事なのは正味最後の章だけです笑。読んでもらってありがとうございました❄️💃個性はまだ続きます。

      

当事者意識は必要??

 

前回の投稿で
数多くのいいね!・シェアをしていただき

ありがとうございます。

 

このままの勢いで1ヶ月突っ走っていきたいと思います。

 

当事者意識は必要なの?


子どもの貧困対策をされてる方や
不登校・ひきこもりの支援をされてる方とお話をさせていただく機会が
とても多く
そのお話をさせていただく中で

 

「当事者意識は必要なんだろうか」

 

ということをふと感じました。

 

子どもの貧困対策をされてる方は
自分の子ども時代の辛い体験をもとに活動されてる方が多く
不登校の支援をされてる方は
自身が不登校であった方ももちろんいますが
圧倒的に自分の子どもが不登校であった方が多いように感じます。

 

ひきこもりの支援をされてる方に関しても
ひきこもりから脱した元当事者の方が大多数を占めているような気がします。

 

確かに
今までの経験を生かして
支援する方に回ることは良いことだと思いますし
当事者だからこそ分かることもかなり多いと思います。

 

ただ
先日Facebookでも軽く述べましたが
当事者同士の支援だけでなく
当事者以外の支援もこれからは必要になってくるのではないでしょうか。

 

当事者の声に耳を傾ける 

その際
大切になってくるのが
当事者が自らの『声』をいかにして
発信していき、
その『声』に僕含めた当事者以外の人々がアンテナを張り巡らせることだと思います。

 

幸いなことに
今は子どもの貧困に関する新聞記事がかなり多く掲載されるようになり
加えて不登校新聞・ひきこもり新聞というものが発刊されており
当事者自身が『声』を発信しやすくなっています。

 

しかし


この『声』が当事者以外に届いているか?


と問われると少し首をかしげざるを得ないと僕は思います。

 

従来は
見えにくく、分かりにくかった
当事者の『声』
《文字》という形で言語化されている
ということは大変喜ばしいことだと思いますし
自らの辛い体験を
《文字》という形で言語化されている
当事者の方には頭が下がります。

 

が、どうしても
その『声』が当事者以外の人々には行き届いておらず
だからこそ未だに


「ひきこもり・不登校になるのは本人の努力不足」
「貧困に陥るのは親が努力しなかったから」


といったような自己責任論が聞かれるのではないでしょうか。

 

一刻も早く
この自己責任論が聞かれることのない世の中を構築していくためには
当事者の『声』に対する
アンテナを僕含めた当事者以外の人々が常に張り巡らせておく必要があるのではないでしょうか。

 

その為にも
当事者の『声』が言語化された媒体がある、ということを
色んな形を通じて発信していくことが
これからは求められてくると考えます。

 

当事者意識はあるに越したことはありませんが
これからはやはり当事者以外の方々が支援する側に回ることもまた必要で
そうすることで

今まで以上により良い活動となり得るのではないでしょうか。

個性とは

   「個性を生かす教育」というのはよく聞くもので、現行学習指導要領の総則にも載っています。ナンバーワンよりオンリーワンだとか色々な言葉の支柱にもなり得ているこの個性。

   ですが、個性とは何かを以前はっきりと答えられず詰まってしまいました。現場に立つものとして「個性とは子ども一人一人が持つイキイキとした輝きのことだ!」なんてポエム理解では学校やクラスで何も実行できないと感じて具体的にどんなものか考え、自分で納得できる内容に思い至ることができました。

 

個性の定義

  • 人が生まれもった性質
  • その性質を踏まえてどう生きるか

この二つです。順に説明します。

   ここでの性質は、感と体です。目がどう・髪がどう・酒に強い弱いといった体質と、オレンジ色が好き・ピーマンが嫌い・体を動かすのが好きだ嫌いだといった感性がこれにあたります。

   性質の種類や程度が全く同じ人はいません。それに伴って、人の生き方や考え方もその人特有のものになります。俗にいう「らしさ」です。

   この二つの総称が「個性」なんじゃないかと今は考えています。考え始めた時は自然と「個性=x」と一つのものだとしか考えられていませんでしたが、本も読みながら色々考えていると別に二つでもいいんじゃないかこれが自分の今の正解だと行き着いたのがこれです。

   児童生徒ももちろん、十人十色の個性を持っています。クラスに40人いれば40通りの人間がいるはず。かのリポーターが教師だったらクラスを、個性の宝石箱や〜とでも表現するでしょうか。まぁいらない話はさておき、そういった状況だからこそ今話題の協働的学習やグループワークなどが意味をなすんだろうと思ったりします。ある先生が「教室に、同じ学年で一人一人違う生徒がこんなにいる。この状況を使わない手はない。」と仰っていたのが思い出されるのですが、一つのものに全く同じ感じ方・考え方では話し合いも意見のすり合わせも何もありません。自分の意見を深めることも、色々な意見から合意を探ることもありません。個性を認めずして何も始まらないということです。

   ところで、個性を履き違えて「オレッチ個性的!」と思ってバカッターだのなんやかんややらかしてしまう人がいるのも事実です。これは、生まれもった性質ではなくそれを踏まえてどう生きるかの部分が社会性に欠けていたり、つまりは「悪い」状態にあるということです。みんなで人の間でしか生きられないのが人間。個性の伸長というのは、そういった生き方の部分を善いように変えてやることだと思います。

 

 

   読んだことがある人は分かると思いますが、ある本がこの考え方のきっかけになっています。探してみてください。

   今回の個性ですが、土曜日にテレビでやっていた『アナと雪の女王』にも おや〜笑。繋がるところがある!と見ながらニヤニヤしました。次はその繋がりについて感じたものを書いてみたいと思います。

 

 

 

弱さに価値がある?

 

「その人の能力・特性に応じたサポートが出来るようにこちら側がコーディネートをする」

 

またまた先日参加した
子どもの貧困対策レベルアップ研修会からの引用になるのですが、、、

 

それほど僕にとって
学びの多い研修会だった。
ということにしておいていただけると有り難いです。

 

僕自身は前回のブログでも述べた通り
学生が中心の有志団体の代表を務めています。

 

その中で
同じ立場・身分である学生をまとめていくにあたり
常に

【自分自身が当たり前に出来ること】

を基準に考えてきました。

 

その中で

【自分自身が当たり前に出来ること】

の半分すらも出来ない学生を見ては攻撃し、排斥し
自らの行いを合理化する為に
「あいつは出来ない奴だ」
と自分自身に言い聞かせてきました。

 

そのような
いわゆる独りよがりになっていた中で冒頭で述べたような言葉を聞いたので
正直頭を金づちで殴られたような衝撃を受けました。

 

弱さに価値がある?

加えて昨日、一昨日駒澤大学で行われた
『第12回全国若者ひきこもり協同実践交流会』
の基調講演で

ある方がこのように
おっしゃられていました。

 

「弱さで繋がる。弱さにこそ価値がある。」

 

この場合の弱さが何を指すのかは
各々の捉え方によってかなり異なってくると思いますが
そこは一旦置いておくとして

 

人間は
全て弱い存在である


と僕は考えています。

 

このような立場に立つと
弱い存在である人間ひとりができることはとても限られていて
だからこそ他の人とお互いの弱みで繋がり
お互いの弱みを補填し合えるような関係作りをこれからは
どの分野に於いても求められるのではないでしょうか。

 

同じ立場に立つと...

冒頭で述べた言葉も

おそらくこのような立場に立っていると僕は思います。

 

全て人間は弱く

能力・特性にも差異があることは

当たり前なのだから

そのことを踏まえたうえで

各々の能力・特性を補填し合えるような

関係作りを構築していこうよ!

と言う僕に対するメッセージなのかな

と勝手に思ったりもしています笑

 

自省も含みますが
やはり人間が全てをひとりでやろうとすると
かならずどこかで限界が来て
限界が来るとどうなるか、と言うと
他との対立で自らを律しようとしがちになります。

 

同じ目標を持った他と批判し合うことで
生まれてくるものはあると思いますが
他とただ対立するだけでは何も
得られるものはありません。

 

なので
これからは
お互いの弱みを認め合い
そしてその弱みをベースとして

各々の能力や特性を理解したうえで
それを補填し合えるような関係

いわば

「できることもちより」ネットワーク

(これも先ほど述べた方の言葉からの引用になります)の構築が

必須になってくるのではないでしょうか。

 

自分らしくない

   前回は思想の話でした。今回は内容についてです。

    「当たり前と思っていることを考え直していく」という姿勢はあったのでいいねやシェアで応援してくださる方もいらっしゃいました。ですが自分が尊敬している方のブログを読み漁っていると、自分の「書き方」に疑問を持つようになりました。

   自分の興味関心から、文章教育がどうとか特別活動がどうとか色々と書いてきました。そもそも文章作成の思想が前回述べたようなものだったので当たり前ですが、今このブログ読み返してみると「書き方」が全く自分らしくありません。

   誇示のために書いていたようなものなので、自分の考えが正しいとする前提で根拠を色々と探したりしています。勉強会に参加するようになって別の勉強会で考えたことがまた別の会で繋がる実感があったり、自分の好きなものから学べることがあったりするのに、それを全く踏まえることができていません。

   変に形式ばったり難しく考えずに、自分のブログなんだから自分らしさを出して好きに書けばいい。むしろそれが自分の考えを伝えられる一番の方法なんだと気付きました。

   こういう考え方に至ったのもセルフエスティームにあります。なので、セルフエスティームとは何なのか・なぜ高める必要があるのかという点についてはこれから書かなければならないことだと思います。

  「 自分らしさ」と描きましたが、自分らしさって何でしょうか…。その辺について学び考えたことがあるので、次はこのことについて書いていきたいと思います。

   

大学生の常識と大人の常識?

 

「大学生の常識って世の中では完全に非常識だよね〜」

 

先日参加した
子どもの貧困対策レベルアップ研修会で様々な方からこのように言われました。

 

確かに僕がいま代表を務めている
つるっ子プロジェクト実行委員会でも
スタッフである大学生が
・連絡を無視する
・必要な報告をしない
といったようなことが何度か見られました。

 

常識と非常識?

先に述べたようなことは
明らかに【非常識】であり
大学生だからといって許されることではありません。

 

ただ大学生の《常識》全てを
【非常識】と捉えてしまって良いのでしょうか?

 

相手のことを
【非常識】としてしまうと

 

相手が為すことは全て間違いで
自分は何ひとつとして間違っていないのだ!


という一種の自己陶酔に陥りかねません。

 

「学校の常識は世間の非常識」?

これは学校と学校外の関係でもよくあることだと思います。


「学校の常識は世間の非常識」


という言葉を聞いたことがある人はかなり多いことと思います。

 

確かに
・小学校低学年はシャープペンシルを使ってはいけない
・集会の時は第一ボタンの上にあるホックをしめる
といったような学校では当たり前とされていることが
世間では当たり前とされていないことから


「学校の常識は世間の非常識」


と言われてしまっても致し方ない部分はあるかもしれません。

 

ただ先にも述べた通り
学校の《常識》を
世間の【非常識】と捉えてしまうと


学校が為すことは全て間違いで
世間は何ひとつとして間違っていない!

 

と言うこれまた一種の自己陶酔に陥ってしまいかねません。

 

解決策の提示

ではどうしていけば良いのでしょうか?

 

私個人の考えをひと言で端的に表すのであれば


常に《常識》を疑わなければいけない


です。

 

言葉で言うのは簡単ですが
私をはじめどうしても自分の為すことが全て正しいと思い
他を排斥することで自分の存在を確認したいという性を人間が持ち合わせているという点である意味致し方ない部分もあります。

 

なので
いきなり
常に《常識》を疑うのは難しいにしても

 

《常識》を疑わない
→相手の為すことを全て間違いと捉えてしまう
→一種の自己陶酔に陥る

 

という図式を理解しておくだけでも
かなり意義はあるのではないでしょうか。