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脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

卒業文集の記事について

http://kyouiku01.hatenablog.com/entry/2017/01/22/225257

http://kyouiku01.hatenablog.com/entry/2017/01/24/000819

 

   これは以前の僕の記事のリンクです。2ヶ月程のブランクがありますが、この記事についての加筆を行います。

少年よ大志を具体的に抱け

   スーパースターの卒業文集を例に、未来への視点と目標を具体的に書き記すべきだと書いています。「具体的にすれば、次にするべき行動が見えてくる」ということです。これと通じるところが『No. 1理論』という本に書いてありました。 2ヶ月のブランクの中で読んだ内の1冊で、

人間の脳はプラス思考、プラスイメージ、プラス感情になると信じられないほどの力を発揮する。著者の開発したブレイントレーニングの概要を示し、自分の脳に革命をおこす方法を紹介する

内容です。この本を踏まえて卒業文集の記事の加筆を行います。

   人間はいきなりプラス思考を目指したところでどうしてもマイナスイメージが先行して挫折してしまうから、まずはイメージと感情を思い浮かべることがプラス思考の基礎になるということでした。今回はこの「イメージ」について焦点を当てていきます。

具体的な大志をイメージ 

   スーパースターの卒業文集は自分が実現を望む未来を、時期・大会・年収や試合の点数の数字まで事細かに記していました。これはどうなるか全く分からない未来のことであくまでイメージしただけのものですが、このイメージが大事だったんです。

   イメージして、目指すから、未来の自分と現在の自分を比べられる。比べると自分の足りていない部分が分かり、次にどうすればいいかが見えて、やって、力がついていく。本にはエジソンが電球を開発する時の例が取り上げられていました。どんな風になりたいのか・何をしたいのかが具体的であり続け、初めて実現へ近づくことができる。失敗も自分が思い描いている成功の素と、挫折するはずの場面でもプラス思考でいることができる。

   「簡単に言うけどずっと目標を具体的にイメージするなんて難しいんじゃないの?」という声もあるかもしれません。そこで、文章です。

    普段イメージする習慣が無くても、長い時間をかければ0から1へは到達できるはずです。文章は長い時間をかけて考えを練り、満を持して作成できます。文集として残しておけば、自分がもし具体的なイメージを忘れかけても読んで蘇らせることがいつでもできます。そういう意味でも、過去を振り返ってばかりの文集から脱却するべきだなと思ったりします。自分史があったり、色んな文集があってしかるべきかもしれませんケド…!

   以前は「具体的にすれば、次の行動が見えてくる」くらいと考えていましたが、未来実現への第一歩だったんです。卒業文集をただ書かされる・書かせるものと考えず、色んな意味を見出していきたいなと思います。

   あまり長くなっても仕方ないので、気になった方は『No. 1理論』を是非読んでください。ここではほんの一部分しか触れてないです!

 

   とか言いながら、まずは自分が色々やってかんとあきませんよね…💦ということで、次は最近始めた「未来ノート」について書こうと思います。デスノートのポジティブバージョンです。笑😈

   

 

このままの教職課程で良いのか?

 

こんにちは。

 

ブログを始めて早2週間弱。

 

毎回
沢山のいいね!を下さることで
こんなにも沢山の人に見ていただいているからこそ
半端な文章じゃあかんな、と思い
僕なりに何度も加筆修正を繰り返しつつあと残り2週間強
突っ走っていきたいなと思います。

 

今回は少し過激なタイトルからも分かる通り
教職課程に籍を置いている身として


このままの教職課程で良いのか?


と僕が感じたことをもとに教職課程に対する

問題提起を中心に述べていきたいと思います。

 

先に述べておきますが
これから述べることはあくまで
僕が個人的に感じたことをもとに

問題提起をしているに過ぎないので

教職課程そのものを批判しているのではない、
ということを念頭に置いていただけると幸いです。

 

年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、及び/又は衝動性、
多動性を特徴とする行動の障害で、社会的な活動や
学業の機能に支障をきたすものである。
また、7歳以前に現れ、その状態が継続し、
中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される。

 

いきなり気難しい文章が出てきて混乱される方も
いらっしゃると思いますが


これは手元にある教員採用試験対策テキストにある
ADHD(注意欠陥多動性障害)の説明になります。

 

この文章を読んでいただいても分かる通り
教職課程ではADHDを含めた教師になる上で必須となる様々なことに関する
【知識】を学びます。

 

この【知識】を持って教職課程の学生は
教師になっていくわけですが
この【知識】だけで果たしてADHDを含めた
様々なバックグラウンドを抱える生徒に対して
適切な対応をとることは出来るのでしょうか。

 

確かに【知識】は無いよりかはあった方が良いと思います。

 

ただ
この【知識】のみでADHDを含めた様々な
バックグラウンドを抱えた生徒に適切な対応をしていくことは至難の技と言えるのではないでしょうか。

 

このことを僕が痛感したのは
塾の講師としてADHDの疑いがある生徒の指導をした時でした。

 

この生徒は


・手遊びが絶えない
・宿題をまずやってこない
・話をする時に目の焦点が合っていない


などといったような症状が見られ
正直どのような対応をしていけば良いのか、

そのことに気付いた当時は完全に手探り状態でした。

 

ただ
様々なバックグラウンドを抱えた方々とお話をさせていただく中で
本当に何となくではありますが
この生徒に対してどのようなことを
していけば良いのか、が見えてきたような気がしています。

 

この経験から、僕自身は
【知識】のみの脆弱さを痛感しました。

ただ


「【知識】のみの脆弱さを理解し
そのうえで経験・体験をもっとしよう!」


と言っても具体的に何をすれば良いのか正直分からないと思います。


僕も
具体的に何をすれば良いのか、
という問いにはっきりとした答えを出すことは現時点では出来ません。

 

ただ

【知識】のみの脆弱さを理解する

だけでもかなり変わってくるものはあるのではないでしょうか。

卒論代行!?

 

   以前Facebookを見ていてびっくりしたのが、「卒論・論文代行会社」の存在でした。

   料金はそれなりにかかるようですが、調査資料や文献を送ると超短期間(最短一日)で論文を作ってくれるというのです。一見なんでそんな会社があるんだ、作ってもらってどうするんだという言葉が聞こえてきそうな内容。個人的にもそういったところに任せるのはどうなのかなと思うところもありますが、ホームページにこんな言葉が載っていました。

   ほとんどの人は卒論や昇進論文の執筆経験がありません。

   天才でもない限り、経験が無い卒業論文や昇進論文をいきなり書き上げることはできません。練習したことがないので、論文を書けなくても仕方がないことだと私たちは思っています。

以前にこのブログで書いていたことと同じです!「書き方を知らずして書けるはずがない」卒論代行のホームページでこの言葉に巡り合うとは思ってもみませんでした。

   少し話は変わりますが、一年前まで役員の仕事の一環で卒論集を学生に売ることがありました。「卒論の見本でもあるから、そういう意味でと読んだ方がいいよ。」と教授も仰っていましたが、実際学生はほとんど見向きもしません。卒業論文なんてほとんどの学生が書いたことがなく、文字数面でも半分以下のレポートばかりだったはずなのに。

   卒業するためのハードルとして立ちはだかる面倒な論文という考えが先行。四年になってから重い腰を上げて取り組み始めると、書き方も分からず代行にお世話になったり文字数も期限もギリギリの提出でなんとか卒業、という考えは無くさないといけません。

   卒業文集とか他の文章と同様に、卒論を書く意味を自分なりに考えて年度明けに臨むようにします。

   

 

どのような教師になりたいのか?

 

前回も

沢山のいいね!・コメントいただきありがとうございます。

 

今回は僕の思いが中心になりますが

読んでいただけると幸いです。

 

最近至る所にいって
僕が教職を志す学生であることを言うと

 

・どのような教師になりたいのか?
・どのような教育をしたいのか?
・生徒にどのようになって欲しいのか?

 

等々聞かれることが非常に多いです。

 

その度に何となく考えていたことを言語化して
伝えるようにはしているのですが
折角ブログという形で自分が考えていることを発信しているので
今回は僕自身が


どのような教師になりたいのか?


について少し深く掘り下げて述べていこうと思います。


僕の目指す教師像をひと言で表すと

 

「困っている生徒をひとりでも救っていく」

 

になります。

 

【困っている生徒】とは?

【困っている生徒】と聞くと


・勉強が出来ない生徒
・授業に集中出来ない生徒


等々のことを思い浮かべがちですが

僕自身の考える【困っている生徒】は

 

・孤独状態にある生徒

 

という風に捉えています。

 

勉強が出来ない、授業に集中出来ない等々も

学校生活を営むうえで

支障をきたすことは間違いないと思いますが
孤独状態にある生徒は
勉強が出来ない、授業に集中出来ない等々の段階に至ることすら難しいのでは、と考えています。

 

孤独状態にあることと
自己肯定感が低いこととはかなり密接に関連していると僕は考えています。

 

あくまで
前述したような立場に立つと
孤独状態にある生徒は
自己肯定感が低く
そもそも勉強が出来ない、授業に集中出来ないという前段階にいる、ということが理解しやすくなるのではないでしょうか。

 

であるので
僕はまず

僕の考える【困っている生徒】をひとりでも救い
勉強が出来ない、授業に集中出来ない等々の段階に立つことの出来るようにしたい、という思いを持っています。

 

学校という場のみで
【困っている生徒】を救うことが出来れば良いと思うのですが
学校という一つの機関で出来ることにも限界があると思います。

 

なので
何回か前のブログでも述べた通り
・学校として出来ること
・地域として出来ること
などと言った

各々が出来ることを持ち寄り
そこでネットワークを構築すること

が大切になってくると思います。

 

そこで僕は


「学校という一つの機関で出来ることは限られている」


という立場に立ったうえで
地域の方々と積極的に連携し
【困っている生徒】をひとりでも救うことの出来るような教師になりたい!

と強く思っています。

 

ただこれは現段階での僕の考えなので
今後色々な経験をする中で
日々マイナーチェンジをすることはあるかもしれません。

 

が、【困っている生徒】をひとりでも救う
という大まかな軸はぶれることなく今後も精進していきたい、とそう思っています。

『アナ雪』で考える個性

   先週の土曜日にテレビでやってましたが、皆さん『アナと雪の女王』ご覧になりましたか?僕は高校の時に後輩と観に映画館に行った以来2度目でした。ミュージカルがあれば絶対行くのに…と思っても、雪の城のセットとか大変ですかね…。

   今回は、前回の「個性」についてをアナ雪で考えながら進めて行きます。

※僕は個性を・生まれもった性質

                    ・それを踏まえてどう生きるか

と定義付けています。よろしくどうか。

雪の女王エルサの個性

   この人が色々やらかす度に物語が進み、この人が物語を終わらせる、マッチポンプ女王と言えなくもない彼女には「雪や氷を自在に操ることができる」という生まれつきの体質(個性)が。

   物語冒頭ではこの個性による氷をアナの頭に直撃させてしまい、実妹を殺しかけます。その後は両親によって「コントロールできるまで外に出ない」生き方を余儀なくされ、部屋に閉じこもることに。しかし結果的にコントロールどころかどんどん強大になってしまったところで戴冠式を迎えます。

   自分が持つ氷の体質を踏まえて、見られないよう知られないよう人と会うことを避けて生きるのも彼女らしさであり、個性でした。氷の体質という自身が生まれもった体質を封じ込める生き方をしているこの時期は、自分が自分でなく納得のいかない辛い毎日。

   挿入歌「生まれてはじめて」では

  • 一人でいたいのに×2
  • 誰にも会いたくない×2
  • この手で触れたらみんな気づいてしまう
  • 今日だけでもうまくやろう
  • 隠し通すのよ

と、エルサの歌詞はブルーに染まっています。

個性バレるの巻

   式後のパーティーで不意に氷を生み出しまくってしまいます。城内にいられずにエルサは森へ消えてしまい、有名なレリゴーシーンへ続いていく訳です。

   この場面ではエルサの周囲の人間が印象的でした。

  • アナ、氷にドン引き
  • 他国の宰相、怒り心頭(危険視・排斥)
  • 住民、エルサを初めて見る

とりわけ宰相は、想像だにしなかった氷の体質に驚き危険視。排斥しようとします。自分や周りが殺されるかもしれず危ないという理由です。異質な個性を持つエルサは悪者でしかありませんでした。

ありのままで

   隠していた氷の体質はバレてしまい、「もう別に自分隠さんでええや」と吹っ切れて氷の城を作る有名なシーンです。今まで自分を悩ませていた柵を取っ払い(納得いかず葛藤していた時分の手袋やティアラをポイ捨て)氷の体質を目一杯に使いながら自分を信じて生きていくことを選択。

   冒頭とこの辺は自愛や自己肯定感が関わってくると思いますが、今回は個性なので割愛。

   ここからまたアナを殺しかけたり捕らえられたりでなんやかんやあり、最終的には氷を他者のために生かして、氷の体質を隠さずありのままで自分らしさを保ちつつ皆と一緒に生活できるようになります。

個性についての悩みと問題

   冒頭では、氷の体質のために部屋にこもってしまうエルサがいます。この時彼女には

  • 氷止まらん
  • 体質隠して妹とも関わらずこもりきり

という2つの個性に関する悩みがあります。が、もしこの時に監督役がいたら、何に注目して解決しようとするでしょうか。自分がそうだったら、両方を見ます。

   氷の体質ばかり見ていると、「本当は出たいし幼い頃のようにアナと遊びたいけど体質を隠して管理するためにこもらなければいけない」という悩みを理解できない。こもっている生き方ばかり見ていると、悩みのタネである氷の体質を見逃してしまう。実際にアナは氷のことを全て忘れているのでドアをノックしまくりながら

「雪だるまつくろう〜ドアを開けて〜。一緒に遊ぼう!どうして、出てこないの〜?」

と見事に後者です(記憶ないのでしゃーないですけど…)。戴冠式まで何回ノックしたんでしょうか。自分だけが氷の体質と事故を覚えていてこもらざるを得ず悩むエルサと、悩みのタネが分からずに自分が避け続けられていると感じるアナのすれ違いがあります。

   一気に話が変わりますが自分が教壇に立ったり子ども・友人などと関わる時がきたら、個性についてはバランスに気をつけたいなと思います。その人が持つ性質を知りつつ、どんな生き方になって悩んでいるか。仮にジェンダー的な問題であれば性質のところにLGBTだとか性別についてが、生き方のところに制服や友人関係などが入るでしょう。性質と生き方の両方(悩みと悩みのタネを別のものと考える)を意識して考えるようにしていきます。

   他の人に対しても、アナ雪の宰相のような人間を認めてはならないと感じます。自分の予想外・嫌いな個性を理解せず排斥することは、人同士が共に生きていく中で一番の障害になるはず。気に入らない者は排斥するというその人らしさはまさに悪です。社会性も踏まえて直さなければならない「らしさ」であり「個性」です。

   唐突ですが僕が教師を目指す上で「安全安心な授業・クラスを作る」という理念もここに少しあります。

 

今日はちょっとこの辺で幕引きにしようかと思います。少し長くなりましたが、大事なのは正味最後の章だけです笑。読んでもらってありがとうございました❄️💃個性はまだ続きます。

      

当事者意識は必要??

 

前回の投稿で
数多くのいいね!・シェアをしていただき

ありがとうございます。

 

このままの勢いで1ヶ月突っ走っていきたいと思います。

 

当事者意識は必要なの?


子どもの貧困対策をされてる方や
不登校・ひきこもりの支援をされてる方とお話をさせていただく機会が
とても多く
そのお話をさせていただく中で

 

「当事者意識は必要なんだろうか」

 

ということをふと感じました。

 

子どもの貧困対策をされてる方は
自分の子ども時代の辛い体験をもとに活動されてる方が多く
不登校の支援をされてる方は
自身が不登校であった方ももちろんいますが
圧倒的に自分の子どもが不登校であった方が多いように感じます。

 

ひきこもりの支援をされてる方に関しても
ひきこもりから脱した元当事者の方が大多数を占めているような気がします。

 

確かに
今までの経験を生かして
支援する方に回ることは良いことだと思いますし
当事者だからこそ分かることもかなり多いと思います。

 

ただ
先日Facebookでも軽く述べましたが
当事者同士の支援だけでなく
当事者以外の支援もこれからは必要になってくるのではないでしょうか。

 

当事者の声に耳を傾ける 

その際
大切になってくるのが
当事者が自らの『声』をいかにして
発信していき、
その『声』に僕含めた当事者以外の人々がアンテナを張り巡らせることだと思います。

 

幸いなことに
今は子どもの貧困に関する新聞記事がかなり多く掲載されるようになり
加えて不登校新聞・ひきこもり新聞というものが発刊されており
当事者自身が『声』を発信しやすくなっています。

 

しかし


この『声』が当事者以外に届いているか?


と問われると少し首をかしげざるを得ないと僕は思います。

 

従来は
見えにくく、分かりにくかった
当事者の『声』
《文字》という形で言語化されている
ということは大変喜ばしいことだと思いますし
自らの辛い体験を
《文字》という形で言語化されている
当事者の方には頭が下がります。

 

が、どうしても
その『声』が当事者以外の人々には行き届いておらず
だからこそ未だに


「ひきこもり・不登校になるのは本人の努力不足」
「貧困に陥るのは親が努力しなかったから」


といったような自己責任論が聞かれるのではないでしょうか。

 

一刻も早く
この自己責任論が聞かれることのない世の中を構築していくためには
当事者の『声』に対する
アンテナを僕含めた当事者以外の人々が常に張り巡らせておく必要があるのではないでしょうか。

 

その為にも
当事者の『声』が言語化された媒体がある、ということを
色んな形を通じて発信していくことが
これからは求められてくると考えます。

 

当事者意識はあるに越したことはありませんが
これからはやはり当事者以外の方々が支援する側に回ることもまた必要で
そうすることで

今まで以上により良い活動となり得るのではないでしょうか。

個性とは

   「個性を生かす教育」というのはよく聞くもので、現行学習指導要領の総則にも載っています。ナンバーワンよりオンリーワンだとか色々な言葉の支柱にもなり得ているこの個性。

   ですが、個性とは何かを以前はっきりと答えられず詰まってしまいました。現場に立つものとして「個性とは子ども一人一人が持つイキイキとした輝きのことだ!」なんてポエム理解では学校やクラスで何も実行できないと感じて具体的にどんなものか考え、自分で納得できる内容に思い至ることができました。

 

個性の定義

  • 人が生まれもった性質
  • その性質を踏まえてどう生きるか

この二つです。順に説明します。

   ここでの性質は、感と体です。目がどう・髪がどう・酒に強い弱いといった体質と、オレンジ色が好き・ピーマンが嫌い・体を動かすのが好きだ嫌いだといった感性がこれにあたります。

   性質の種類や程度が全く同じ人はいません。それに伴って、人の生き方や考え方もその人特有のものになります。俗にいう「らしさ」です。

   この二つの総称が「個性」なんじゃないかと今は考えています。考え始めた時は自然と「個性=x」と一つのものだとしか考えられていませんでしたが、本も読みながら色々考えていると別に二つでもいいんじゃないかこれが自分の今の正解だと行き着いたのがこれです。

   児童生徒ももちろん、十人十色の個性を持っています。クラスに40人いれば40通りの人間がいるはず。かのリポーターが教師だったらクラスを、個性の宝石箱や〜とでも表現するでしょうか。まぁいらない話はさておき、そういった状況だからこそ今話題の協働的学習やグループワークなどが意味をなすんだろうと思ったりします。ある先生が「教室に、同じ学年で一人一人違う生徒がこんなにいる。この状況を使わない手はない。」と仰っていたのが思い出されるのですが、一つのものに全く同じ感じ方・考え方では話し合いも意見のすり合わせも何もありません。自分の意見を深めることも、色々な意見から合意を探ることもありません。個性を認めずして何も始まらないということです。

   ところで、個性を履き違えて「オレッチ個性的!」と思ってバカッターだのなんやかんややらかしてしまう人がいるのも事実です。これは、生まれもった性質ではなくそれを踏まえてどう生きるかの部分が社会性に欠けていたり、つまりは「悪い」状態にあるということです。みんなで人の間でしか生きられないのが人間。個性の伸長というのは、そういった生き方の部分を善いように変えてやることだと思います。

 

 

   読んだことがある人は分かると思いますが、ある本がこの考え方のきっかけになっています。探してみてください。

   今回の個性ですが、土曜日にテレビでやっていた『アナと雪の女王』にも おや〜笑。繋がるところがある!と見ながらニヤニヤしました。次はその繋がりについて感じたものを書いてみたいと思います。