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脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

歪な古文暗誦文化

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

   これが平家物語の冒頭だと分かる・覚えていることに、なんの意味がありますか?今回は古典の思考停止ともいえる暗誦文化についてです。

覚えて何になるのか

   中学で平家物語の冒頭や「月日は百代の過客にして」と奥の細道の冒頭を暗誦することで何の力がつくのでしょうか。私はこういった冒頭だけを覚えていて役に立ったということがありません。暗誦をさせる先生方に、何を目的として生徒にさせるのか伺いたいところです。またそれを生徒に伝えているのでしょうか。

   その上暗誦テストがあれば、何のために覚えるのか生徒は分からないまま覚えて採点される。古典嫌いが生まれる一因だと考えます。社会に出るとき必須な能力を養うと、アクティブラーニングなどを提唱する傍らでこれでは支離滅裂です。

なぜ特定の古典だけ?

   平家物語源氏物語奥の細道など、冒頭を暗誦させられる古典は数多くあります。疑問を呈したいのは、なぜ特定の古典だけなのかということです。漢文の春望・春眠暁を覚えずを覚えている人は少ないのに、川端康成の雪国の冒頭を覚えている人は少ないのに、特定の古典は覚えている。なぜ…?意図や目的は考えず無意識的に「覚えるべきもの」という意識があり、通例化しているからではないでしょうか。伊勢物語の東下りにある和歌は覚えさせるのに、百人一首は自分も覚えていない。教科書に載っているから、みんな覚えるものだからという考えで暗誦を課しても意味を持ちません。

目的化した暗誦はNG

   繰り返し音読することは古典特有のリズムと言葉遣いを感じ、語句の理解を確認する上で有効な手段です。音読を「しなければならない状況にさせる」ために暗誦をさせることは一つの方法といえます。暗誦するために生徒は何度も音読することになります。

   しかし暗誦が目的では、覚えて何になるのかという問いに戻ります。

 

   教員になる者は、みな元は生徒です。授業を考える際は自身が受けた授業の記憶が大きく関わります。古文暗誦のように自分が経験していたものでも、その当たり前と考える授業に果たして意味はあるのか、生徒にどんな学びがあるのか、一歩立ち止まって考え直すことを忘れてはならないと思います。

    以降、個人的な考えですが古典の授業で大切にしたいことをブログで述べていくつもりです。今回は、無意味な暗誦はさせるべきではないという考えでした。