大学全入時代に大学を考える②
「大学全入時代に大学を考える①」では留学・学生団体設立だけでは希少性を得ることが困難になってきた、という私の考えを述べました。
では、どうすれば良いのか?という問いに対する私なりの答えをここでは述べていきます。
アクションだけでは意味がない
留学・学生団体設立にしても自らアクションを起こさないといけないということは明らかです。
自らアクションを起こすことそのものは素晴らしいことだと思いますし、それだけで希少性が得られるようになれば良いのですが、現状それだけでは厳しいことは重ね重ね述べてきました。
明確なビジョンを持ったうえでのアクション
決してアクションを起こすことそのものを否定しているわけではなく、短期的・中長期的、かつ明確なビジョンを持ったうえでアクションを起こさないと、留学にしても学生団体設立にしても各人の自己満足に終わってしまいます。(自己満足を得る為の留学・学生団体設立ならば、それで良いと思うのですが...)
明確なビジョンを持つことの重要性
明確なビジョンを持つことの重要性は大きく分けて2つあります。
- 自らのアクションに意味づけ
- 常に自らのアクションを省みる
明確なビジョンがあると自らのアクションにそのビジョンに基づいた意味づけをしやすくなります。
明確なビジョンも無しにアクションを起こしたところで、自らの活動は結局のところ自己満足に収斂され、それはせっかくのアクションを無駄にする行為です。
そして明確なビジョンをもとに常に自らのアクションを省みることも可能になるでしょう。
このようなことから、アクションを起こすということそのものに焦ることなく、まずは明確なビジョンを持つことが肝要になることが分かります。
明確なビジョンの言語化
留学するにしても、学生団体を設立するにしても、明確なビジョンを持つことが肝要であることは前述した通りです。
が、そのビジョンを頭の中で整理し、自らの言葉で言語化することもまた重要になってきます。
言語化する、ということは簡単なようで難しく、明確で素晴らしいビジョンを持っていたとしても、それを言語化出来ないと他者にはもちろん伝わりません。
伝わらなければ、ビジョンそのものの意義がだいぶ失われてしまいます。
大学全入時代に希少性を得る為には
長々と私なりの考えを述べてきましたが、大学全入時代に希少性を得る為には果たしてどうすれば良いのでしょうか。
留学に行って海外の人と交流を持つ、学生団体を設立して様々な人と出会う等々、希少性を得る為に考えられる策はかなり多くあると思います。
どの策を講ずるにしても、明確なビジョンを持ち、そのビジョンをもとに常に自らのアクションを省みることが必要です。
加えて明確なビジョンを言語化し、自ら外に向けて発信していくこともまた必要になってくるでしょう。
いずれにしても今の大学生には自らの頭で考え、考えたことを具現化し、更にその考えたことを言語化し外に向けて発信していくことが求められています。
そうなるとひと昔前のように
「大学=モラトリアム」
という風に捉えて、ただただ怠惰な生活を送ることは、これからの大学生が希少性を得る為には相応しくないことだと言えるでしょう。
追伸 本ブログが私含めた大学生や、これから大学を目指そうとしている高校生は勿論のこと、大学を卒業して社会人として活躍されてる方が、大学の意義について再考する契機となれば幸いです。
青野
ポエムは楽だが役に立たない
ここでいうポエムは、詩ではありません。「口から発して・耳で聞いて心地よいけど具体性は皆無な言葉」を指しています。今回はポエムが大好きな人への問題提起と自戒を込めて書きました。
昨日はedcampTokyoに参加してきました。まだまだシワの少ない脳みそを丸一日フル回転させてきたわけですが、この記事では印象に残っているものから一つを挙げます。
与えられた課題を解決するだけではこれからの社会では通用しない。「何をやるべきか」を想像・判断・実行するチカラが求められている。
「なぜやるのか」も大切ではないかと思いますが、今回は「何をやるべきか」についてです。これは確かにそうだ!人生の何にでも応用できるまさに21世紀型スキルだな!と感じました。が、しかし…
ポエ娘・ポエ息子はこれが全くできません。
ポエムが大好きな人を僕はこう呼んでいます。ポエムを唱えるのは楽です。「〜が大切だと思う。」「〜しないといけないと思った。」「〜でなくちゃあいけない。」
しかし、そのために次は何をどのようにすればいいのかというところに考えが全く至っていない人がとても多い気がします。自分の周り=大学生で。大学生ポエ娘・息子に上記の質問を投げるとだいたい「どうしたらいいんだろう…?」という答えが返ってきます。結局、いいこと言ってるけど中身は空虚な自己満足でしかない。
また、ポエムへのこだわりはとても強い。強すぎて何か突っ込まれるとプリプリ怒り始めます。が、怒るだけ怒って逃げるかやるとなると分からない。企画などでも物事を進めるのはいつも彼らを怒らせる側の人です。大学3年間で何度もこういう経験がありました。
教師がこれだと重症だ!
教師になる上で「生徒のことを常に考えます!」「共に学び合える教師を目指します!」「○○科の楽しさを実感させられる授業をします!」とか、紋切り型の自己PRはよく聞きます。それぞれ実践する具体的な案や方法があればいいと思いますが、これを聞くと「うーん…」という反応があるはずです。これで現場に入っても、実践することは不可能ではないでしょうか…。
ポエム大好きからは脱却しなければならないといつも思っています。具体的な方法として
- 野望・ビジョンを持つ
- 自分をやらないといけない状況にもっていく
- 具体的なアクションを考える。
という手順を私は踏むようにしようと意識していきます。edcampのエピローグでも必ず具体的なアクションを考え、しかもみんなに話すという2.3が両方必ず入ってる。やらないといけない状況に自分や周りをもっていくことは先生として必須のスキルだと思うので、とりわけ2が重要なのかなと思ったりもします。
PBLでも学生企画でもなんでも、ポエムではいけないと思う今日この頃でした。
ファンタスティックビーストめちゃ面白かったです🙆♂️
佐藤
大学全入時代に大学を考える①
今現在、4年制大学への進学率が50%を超え、専門学校・短期大学等を合わせた高等教育機関への進学率は70%を超えています。
その一方で毎年のように定員割れとなっている大学もあり、いわゆるFラン大学と呼ばれる大学が乱立しています。
このような現状を鑑みると、今の日本はもはや大学全入時代に突入したと言っても過言ではないでしょう。
1950年代の4年制大学への進学率は10%程度であったことから、ここ50年で4年制大学を含めた高等教育機関(以下、大学とする)への進学率は飛躍的に向上していることが分かります。
何故大学に進学するのか?
ここでひとつ疑問が生まれます。
何故わざわざ世界トップレベルの授業料を払ってまで大学に進学するのでしょうか?
小中学校の義務教育期間が終了すれば、保護者に義務付けられている普通教育を受けさせるということは果たされたと言えるのではないでしょうか。
大学全入時代に突入した今だからこそ、大学に進学することの意義を今一度問い直す必要があると考えます。
希少性を得る為の大学進学?
大学に進学することの意義のひとつとして、希少性を得ることが挙げられると考えます。
1950年代は前述のデータが指し示す通り、大学に進学する生徒そのものが少なかった為、大学に進学するということだけで希少性が得られたことは容易に想像できます。
しかし現代は前述した通り大学全入時代に突入していることから、大学に進学するということだけで希少性が得られることはまずないでしょう。
大学全入時代に希少性を得る為には?
大学に進学した者の中で希少性を得る為に最近の大学生の間でブームとなっているのは留学・学生団体設立が挙げられると考えます。
[留学]
留学と一言で言っても、期間は1ヶ月、半年、1年...とバラエティに富んだものとなっています。
1ヶ月単位で留学に行くことが出来るようになってから留学に行くということに対するハードルは確実に下がっていると言えるでしょう。
現に留学者数は1980年度が約1万5千人であったのに対し、2010年度は約5万8千人となっています。
2004年度の約8万3千人というピークに比べると減少していることは確かではありますが、依然としてここ30年で留学者数は4倍以上に跳ね上がっています。
[学生団体設立]
私が在学している都留文科大学に於いても私が代表を務めている子ども食堂プロジェクト、友人が代表を務めている古民家再生プロジェクト等々、挙げれば枚挙にいとまがありません。
以上のようなことから、大学に進学した者の中で留学・学生団体設立という形で希少性を得ようとしている学生が増え続けつつあるということはまぎれもない事実と言えるでしょう。
希少性を得る為に始めたことがブームとなってしまうと、留学・学生団体設立だけでは希少性は得られなくなってしまうことは明らかです。
留学にしても学生団体設立にしても、ただ留学すれば、ただ学生団体を設立すれば希少性が得られるという時代はとうに終わりに近づいていると考えます。
であるならばどうすれば良いのでしょうか?
この問いに対する私なりの答えも合わせて「大学全入時代に大学を考える②」で詳らかに述べていきます。
青野
原稿用紙の憂鬱
原稿用紙が
批判の雨に打たれている!!!!!
最近至る所で「原稿用紙いる?いらないよね?いらないわ。」という否定的意見を見聞きします。批判の雨でびしょ濡れのボロ雑巾状態です。
そういった意見を見るたび、原稿用紙は使い方次第ではないだろうかという個人的な考えが頭をよぎります。自分が教壇に立った時にどうするのかを踏まえながら、その考えを少し書いてみました。
確かに意味不明・守る必要性ゼロだろうと感じる規則はあります。例えば
- 題名は三字下げる。
- 署名は下に一字空ける。
- 姓名の間も一字空ける。
などなど。題名と署名だけでこれ。題名が二字下げだろうが三字下げだろうがどうでもええやろ…という感じです。これを厳密に守らされ、間違う(?)と恰好の餌食。理不尽に思える減点で作文を嫌いになるのも当然だと思います。私も不必要な形式はこだわるべきでないという意見です。
でも、中には句読点や段落分けなど文章を書く上で大切な形式もあるはずです。
教師が教えるべきは、形式だけでなく「なぜそんな形式にするのか。」ということではないでしょうか。
文章を書くことには読む人にとって分かりやすいよう内容を表現する必要が常につきまといます。その前提を踏まえて、段落にはどんな意味があるのか・なぜ作った方がいいのか・なぜ句読点は最後のマスに文字と一緒に書くのか等といった形式の理由を必ず教えるべきだと思います。形式だけを教えるから形式を扱う理由が分からず、書く力もついてこないどころか嫌いになる。
形式の理由については今回省きます。ここで出てくる意見はそんなこと言ったって原稿用紙なんて使うことないじゃん!時代はSNSだぜ!という感じでしょうか。
確かに、文学館にある直筆資料を見ると文豪でさえ原稿用紙の枠を突き破ってメモ用紙のように書いています。なおのことSNSで意識することはありません。ですが文豪はさておき、僕はSNSが特殊ではないかと思うのです。
国語の教科書からはじまり新書・単行本・kindleといった書籍では縦書きかつ原稿用紙の形式です。「いや、教科書も国語以外SNSやwordとかと同じ横書きでしょ。」と言われると確かにそうです。が、横書きでも段落や句読点などの形式は変わりません。なぜ形式はどれも共通なのか。
それは分かりやすい文章に形式が必要だからです。大学のレポートや論文でも引用だと示すために引用部分は二字下げるとかお約束ごとはあります。が、やっぱり共通している形式にはそれぞれ意味があるのではないでしょうか。教師がその点を理解した上で、生徒達に「なぜそんな形式にするのか・何の意味があるのか。」とセットで作文指導を行うことが必要だと思います。
SNSでも共通の形式は句読点が行の初めに来ないことくらいです。ですが、SNSではしにくいことが非常にやりやすくなります。教師が生徒に作文指導をする中で、分かりやすい文章を書くための形式と意味を、実際に書いて実感を伴いつつマスがあるため視覚的にも分かりやすく生徒に伝えられるツールとなるのではないでしょうか。そう、原稿用紙ならね。
佐藤
このブログについて
このブログは一介の大学生が
なんやかんや考えたことを徒然なるままに
書き綴っていくブログです。
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