言葉で表現することの危うさ
前回のブログでedcampに参加した旨やedcampを通じたネクストアクションについてお話しました。
今回はedcampである公立学校の先生がおっしゃられていたワードをもとに私なりの考えを述べていきます。
言葉で表現することで分かりやすくなることも多くあるが、表現の仕方を誤ると実態とは大きく乖離してしまう。
言葉だけで言っても今ひとつイメージが掴めないと思うので、ここで具体例を一つ。
よく教職課程の授業を受けていると、荒れたクラスの実態が言葉で表現されているレジュメに出くわすことが多々あります。
並んでいる言葉を見ると
- 授業中、立ち歩く生徒が多くいる
- 授業中、私語が絶えない
- 授業中、クラスを抜け出してしまう生徒が目立つ
とまあ、この言葉だけを見るとこのクラスの授業は凡そ成立していないと言えるでしょう。
言葉で表現=実態に即している?
しかし実態は
- 立ち歩くと言っても、50分授業のうちの5分程度のみ
- 私語が絶えないというのは、あくまで教員側の主観で私語が絶えることも勿論ある
- クラスを抜け出す生徒はトイレに行く為であり、目立つというのもあくまで教員の主観
ということも無きにしも非ずだと思います。
実態に即した言葉選び
先ほど挙げた具体例はあくまで一例なのですが、「授業の様子」という一場面を切り取っただけでも言葉と実態とがあまりにも乖離していることが分かります。
私がここで述べたいのは、言葉と実態は即していないことがあるのだから、実態を言葉で表現することはやめた方が良い!
ではなくて、表現された言葉のみで判断するのは危険だよね?ということです。
私を含め、言葉という形で分かりやすく表現されたものがあれば、安易にそれに飛びついてしまいがちです。
言葉というフィルターを通さず、自らの目で実態を見る・感じる・考えることもまた言葉で表現されたものを読むことと同じ、もしくはそれ以上に大切になってくるのではないでしょうか。
表現理解+実態観察
=真の理解
このようなことから上の式が導き出されます。
何事に於いても言えることだと思いますが、何か一つの事物を理解しようとする時、大抵、人は言葉で表現されたもの(本、インターネット等)をまずは理解しようと努めます。
言葉で表現されたものを理解することそのものはとても大切だと思いますし、言葉で表現されたものをまずは理解しようとすることそのものを否定しよう!という気はさらさらありません。
言葉で表現されたものだけでは...
言葉で表現されたものだけで、何か一つの事物を理解しようとすると、必ず事実との齟齬が生まれます。
その齟齬が生み出す弊害は計り知れません。
このような齟齬をなくしていく為にも、
見る・感じる・考えることの重要性を今一度問い直す必要があるのではないでしょうか。
国語教員を目指す者として
言葉で表現されたものの脆弱さを再考すべきだと強く感じます。
青野
読書感想文の是非2 (廃止論)
読書感想文が何のためにあるのか、私ははっきりと理解できたためしがありません。好きという人に出会ったこともないし、良さと狙いを説明した上で課してきた先生もいません。自分が教壇に立つ時も希望制にしたいと思っています。
理由は3つです。
- 文章を書くために本を読みたいか
- 内容へのレスポンスもできない
- 小説家への道を強制するな
以下はこの理由について詳しく述べていきます。
文章を書くために本を読みたいか
読みたくない人が多いはずです。
私は、文章を書くために読んだ本の感想文の大半はロクなもんじゃないと考えています。感想文を書くために感動して物事を考えることに意味はありません。(1で指摘した暗黙の了解を踏まえた)素晴らしい感想文も中にはあるでしょうが、そんな文章を書いた人にたいして私は「本の内容覚えてる?何に感動した?今の考え方にどう影響してる?」と聞いてみたいものです。しっかり自分の素養としている人もいると思いますが極少数で、多くの生徒は本の内容や感想ともに忘却の彼方ではないでしょうか。
各々が好きな本を、好きなだけ読んで、好きなだけ自分の頭で考えて楽しめばいい。そう思います。
内容へのレスポンスもできない
あなたは感想文を書いて先生に提出しました。その後どうなりますか?
大半はそれで終わりです。優れた感想文だと評価されればコンクールで賞をもらって終わり。作文を返却されても花丸だけでコメント1つ無し、という例を友人から聞いたことがあります。書き方を教えない中で書けと課し、教師自身は文章にコメントすることもできない。これでは生徒も何のために感想文を認めるか分かりません。読書感想文を形骸化した悪文化に教師が変えてしまっている状況です。
小説家への道を強制するな
文章を書く上で最も重要なのは「自分にしか分からないことを誰にでも分かりやすいように認める」ことですが、最も難しい原則でもあります。まして自分の気持ちを正確に他者に伝えることは至難のワザです。
読書感想文には、文法知識や語彙を求められ、暗黙の了解に基づいた本まで読んで、この原則が待っています。しかもここが好き・嫌い・どう思うということが一言で終わるような小学校低学年でも原稿用紙2枚(800字)という長さ。また学年に伴って量も増え、中学生になると5枚(2000字)にもなります。読書感想文は難し過ぎるのです。それなのに書き方はロクに教えず、原稿用紙と一緒にリーフレットを生徒に渡すだけ。これで生徒に小説家になれと強要しても、作文嫌いを助長するだけです。
Yahoo!で「読書感想文」と検索すると「読書感想文はコピペで済ませよう!そのまま使える例文を一挙10件公開」なんて記事が最初にヒットします。読書感想文の是非1や原稿用紙の憂鬱(当ブログ記事)で述べたことも鑑みれば、百害あって一利なしといっても過言ではありません。書くのが好きだという生徒も中にはいると思うので、私は教壇に立った時、書きたい者が書く希望制にしたいと考えています。
佐藤
読書感想文の是非1
みなさんは読書感想文を覚えていますか。夏休みの課題としてこなした記憶が多くの方にあるのではないでしょうか。『ライ麦畑でつかまえて』『アルジャーノンに花束を』といった代表的な課題図書から自由図書まで「自由に」書き記すあの感想文です。
1955年から読書活動促進を目的として今日まで続いています。私はこの読書感想文、書くのが本当に億劫でした。読書が嫌いという訳ではありません。むしろ本の虫とまではいきませんが、特に中高校生の時はよく読んでいました。感想文が嫌いだったんです。
そして教員を目指している今はなおさら「どうなんだ…。」という思いが考えるたびフツフツと湧いてきました。その疑問を何回かに分けて書いていきたいと思います。今回は「自由」という点に絞りました。
「自由」な内容
本が面白いかどうかなんて人それぞれ。内容の解釈も十人十色です。『ごんぎつね』でも猟銃で打たれたごんが可哀想だという意見があれば、最初から悪戯をしなければ済んだ話だという意見もあるはず。
しかし読書感想文では、本の内容に否定的な(面白くなかった)意見で書かれたものは表彰されません。本を読んでどれだけ心を動かされたか・物事を深く考える契機となったか等、肯定的な文章だけが良い感想文として評価されます。
仮に読んだ本が面白くなくて素直にその気持ちを表現しても、いくらその気持ちを論理的に分かりやすい文章でまとめても、評価はされない。これはどうなのでしょうか。自由と謳っておきながら、全ての本が全ての人にとって素晴らしい内容だという前提で文章を書けと強制している。「読書(した本の内容を素晴らしいとする)感想文」というおかしな暗黙の了解があるはずです。
「自由」な書き方
「感じたこと・考えたことをそのまま自由に書けばいいよ。」これは読書感想文に関わらず、作文をする際によく先生から発せられるアドバイスです。そしてそのアドバイスを受けた生徒は困ります。「書き方が分からないんだよ…。」と。 感じたこと・考えたことを書くことくらい、誰でも分かることです。生徒の筆が止まるのは他のところに原因があるのではないでしょうか。
私は原因が二つあると考えます。一つ目は感想文の書き方が分からないこと。二つ目は気持ちを文字化するのが難しいこと。今回は前者について触れます。
「エッセイ書いて!」と言われて書き方を具体的にイメージできますか? いきなりですが、そういうことなんです。
感想文・論文・感謝状…と文章の種類は様々です。一方でその書き方はほとんど教えられる機会がありません。書写の時間に字の練習として種々の文章をなぞる程度の記憶しか私にはありません。形式を知らない上で自由に書けと言われても、選べる書き方が無いのです。
「自由」はある一定の枠組みの中で存在するものです。社会ではルールの範囲内で自由に行動でき、ディナーバイキングでは用意されたメニューの中からは好きなものを選べます。作文も、書き方を知っている中で初めてどのように書くか考えることができます。まずは種々の文章の「書き方」を教える必要があるはず。読書感想文はこの点をよく見ずに課せられることが多いのではないでしょうか。
今回は「自由」というテーマで触れましたが、数回ほかのテーマで読書感想文について考えることをまた気が向いた時に書いていきたいと思います。
佐藤
これから30日で行っていくこと
1/15(日)に御茶ノ水にあるデジタルハリウッド大学で行われた「edcamp 東京」に参加してきました。
edcampとは?
edcampは従来のセミナーや研修とは異なり、参加者が主体となってテーマ決めやセッションにおけるファシリテイトを行う、というイベントになります。
完全に参加者主体ですので、主催者も当日どのようなイベントになるのか全く予想が出来ません。
契機としてのedcamp
ゼミ活動の一環として9月の下旬に開催された「edcamp 鎌倉」に参加したのですが、そこでは際限なく繰り広げられる議論についていくことができず、参加者の熱量に圧倒され、ただただ自らの無知を痛感させられました。
と同時に自分の価値観がいかに狭かったのか、ということも思い知らされました。
自らの振り返り
「edcamp鎌倉」から4ヶ月弱、私なりに猪突猛進してきたつもりだったのですが、「edcamp東京」に参加された方は私とは比べものにならないぐらい猪突猛進されており、自らの無知を痛感させられました。
が、私が猪突猛進してきたことは間違いでは無かったのだな、ということも様々なセッションを通じて感じることも出来ました。
ネクストアクション
ここで本題に入ると、edcampではセッション終了後、クロージングでネクストアクションとして「これから30日で行っていくこと」を5人程度のグループ内で発表します。
私はこのクロージングで
- 面白い人を都留に招き、都留の学生が新しい風に触れることのできるようにする
- 新しい風に触れることで、今現在の各人の学びに危機感を持ってもらう
以上の2点をお話しました。
都留文科大学の現状
私が在学する都留文科大学は近辺に大学が無く、日本トップレベルの運賃の高さを誇る富士急行線の沿線にあることから、なかなか学生が外部の人と関わろうとしません。
外部の人と関わる機会を外部で設けても、すぐに言い訳をして、アクションを起こさない理由を探すことに躍起になっています。
何とかしたい!!
私はこのような状況を打破する為に、出来る限り多くの外部の人を都留にお招きし、講演会やワークショップという形で新しい風を都留に吹かせてほしい!と強く思っています。
全体を変えるのでは無く、一部を変える
外部の人と都留で関わったところで、アクションを起こす学生は先ほど述べた本大学の事情から、ごく一部だと思います。
ただそのごく一部が変わるだけでもかなりの成果が得られると考えます。
ごく一部が変わることで、その変革が徐々にではありますが全体に浸透していくでしょう。
今現在、既にお二方が都留に来てくださり、講演会をしていただくことが決定しています。
教職志望の学生に新しい風を吹かせていただける方は是非私の方にご一報くださると有難いです。
青野
大学全入時代に大学を考える②
「大学全入時代に大学を考える①」では留学・学生団体設立だけでは希少性を得ることが困難になってきた、という私の考えを述べました。
では、どうすれば良いのか?という問いに対する私なりの答えをここでは述べていきます。
アクションだけでは意味がない
留学・学生団体設立にしても自らアクションを起こさないといけないということは明らかです。
自らアクションを起こすことそのものは素晴らしいことだと思いますし、それだけで希少性が得られるようになれば良いのですが、現状それだけでは厳しいことは重ね重ね述べてきました。
明確なビジョンを持ったうえでのアクション
決してアクションを起こすことそのものを否定しているわけではなく、短期的・中長期的、かつ明確なビジョンを持ったうえでアクションを起こさないと、留学にしても学生団体設立にしても各人の自己満足に終わってしまいます。(自己満足を得る為の留学・学生団体設立ならば、それで良いと思うのですが...)
明確なビジョンを持つことの重要性
明確なビジョンを持つことの重要性は大きく分けて2つあります。
- 自らのアクションに意味づけ
- 常に自らのアクションを省みる
明確なビジョンがあると自らのアクションにそのビジョンに基づいた意味づけをしやすくなります。
明確なビジョンも無しにアクションを起こしたところで、自らの活動は結局のところ自己満足に収斂され、それはせっかくのアクションを無駄にする行為です。
そして明確なビジョンをもとに常に自らのアクションを省みることも可能になるでしょう。
このようなことから、アクションを起こすということそのものに焦ることなく、まずは明確なビジョンを持つことが肝要になることが分かります。
明確なビジョンの言語化
留学するにしても、学生団体を設立するにしても、明確なビジョンを持つことが肝要であることは前述した通りです。
が、そのビジョンを頭の中で整理し、自らの言葉で言語化することもまた重要になってきます。
言語化する、ということは簡単なようで難しく、明確で素晴らしいビジョンを持っていたとしても、それを言語化出来ないと他者にはもちろん伝わりません。
伝わらなければ、ビジョンそのものの意義がだいぶ失われてしまいます。
大学全入時代に希少性を得る為には
長々と私なりの考えを述べてきましたが、大学全入時代に希少性を得る為には果たしてどうすれば良いのでしょうか。
留学に行って海外の人と交流を持つ、学生団体を設立して様々な人と出会う等々、希少性を得る為に考えられる策はかなり多くあると思います。
どの策を講ずるにしても、明確なビジョンを持ち、そのビジョンをもとに常に自らのアクションを省みることが必要です。
加えて明確なビジョンを言語化し、自ら外に向けて発信していくこともまた必要になってくるでしょう。
いずれにしても今の大学生には自らの頭で考え、考えたことを具現化し、更にその考えたことを言語化し外に向けて発信していくことが求められています。
そうなるとひと昔前のように
「大学=モラトリアム」
という風に捉えて、ただただ怠惰な生活を送ることは、これからの大学生が希少性を得る為には相応しくないことだと言えるでしょう。
追伸 本ブログが私含めた大学生や、これから大学を目指そうとしている高校生は勿論のこと、大学を卒業して社会人として活躍されてる方が、大学の意義について再考する契機となれば幸いです。
青野
ポエムは楽だが役に立たない
ここでいうポエムは、詩ではありません。「口から発して・耳で聞いて心地よいけど具体性は皆無な言葉」を指しています。今回はポエムが大好きな人への問題提起と自戒を込めて書きました。
昨日はedcampTokyoに参加してきました。まだまだシワの少ない脳みそを丸一日フル回転させてきたわけですが、この記事では印象に残っているものから一つを挙げます。
与えられた課題を解決するだけではこれからの社会では通用しない。「何をやるべきか」を想像・判断・実行するチカラが求められている。
「なぜやるのか」も大切ではないかと思いますが、今回は「何をやるべきか」についてです。これは確かにそうだ!人生の何にでも応用できるまさに21世紀型スキルだな!と感じました。が、しかし…
ポエ娘・ポエ息子はこれが全くできません。
ポエムが大好きな人を僕はこう呼んでいます。ポエムを唱えるのは楽です。「〜が大切だと思う。」「〜しないといけないと思った。」「〜でなくちゃあいけない。」
しかし、そのために次は何をどのようにすればいいのかというところに考えが全く至っていない人がとても多い気がします。自分の周り=大学生で。大学生ポエ娘・息子に上記の質問を投げるとだいたい「どうしたらいいんだろう…?」という答えが返ってきます。結局、いいこと言ってるけど中身は空虚な自己満足でしかない。
また、ポエムへのこだわりはとても強い。強すぎて何か突っ込まれるとプリプリ怒り始めます。が、怒るだけ怒って逃げるかやるとなると分からない。企画などでも物事を進めるのはいつも彼らを怒らせる側の人です。大学3年間で何度もこういう経験がありました。
教師がこれだと重症だ!
教師になる上で「生徒のことを常に考えます!」「共に学び合える教師を目指します!」「○○科の楽しさを実感させられる授業をします!」とか、紋切り型の自己PRはよく聞きます。それぞれ実践する具体的な案や方法があればいいと思いますが、これを聞くと「うーん…」という反応があるはずです。これで現場に入っても、実践することは不可能ではないでしょうか…。
ポエム大好きからは脱却しなければならないといつも思っています。具体的な方法として
- 野望・ビジョンを持つ
- 自分をやらないといけない状況にもっていく
- 具体的なアクションを考える。
という手順を私は踏むようにしようと意識していきます。edcampのエピローグでも必ず具体的なアクションを考え、しかもみんなに話すという2.3が両方必ず入ってる。やらないといけない状況に自分や周りをもっていくことは先生として必須のスキルだと思うので、とりわけ2が重要なのかなと思ったりもします。
PBLでも学生企画でもなんでも、ポエムではいけないと思う今日この頃でした。
ファンタスティックビーストめちゃ面白かったです🙆♂️
佐藤
大学全入時代に大学を考える①
今現在、4年制大学への進学率が50%を超え、専門学校・短期大学等を合わせた高等教育機関への進学率は70%を超えています。
その一方で毎年のように定員割れとなっている大学もあり、いわゆるFラン大学と呼ばれる大学が乱立しています。
このような現状を鑑みると、今の日本はもはや大学全入時代に突入したと言っても過言ではないでしょう。
1950年代の4年制大学への進学率は10%程度であったことから、ここ50年で4年制大学を含めた高等教育機関(以下、大学とする)への進学率は飛躍的に向上していることが分かります。
何故大学に進学するのか?
ここでひとつ疑問が生まれます。
何故わざわざ世界トップレベルの授業料を払ってまで大学に進学するのでしょうか?
小中学校の義務教育期間が終了すれば、保護者に義務付けられている普通教育を受けさせるということは果たされたと言えるのではないでしょうか。
大学全入時代に突入した今だからこそ、大学に進学することの意義を今一度問い直す必要があると考えます。
希少性を得る為の大学進学?
大学に進学することの意義のひとつとして、希少性を得ることが挙げられると考えます。
1950年代は前述のデータが指し示す通り、大学に進学する生徒そのものが少なかった為、大学に進学するということだけで希少性が得られたことは容易に想像できます。
しかし現代は前述した通り大学全入時代に突入していることから、大学に進学するということだけで希少性が得られることはまずないでしょう。
大学全入時代に希少性を得る為には?
大学に進学した者の中で希少性を得る為に最近の大学生の間でブームとなっているのは留学・学生団体設立が挙げられると考えます。
[留学]
留学と一言で言っても、期間は1ヶ月、半年、1年...とバラエティに富んだものとなっています。
1ヶ月単位で留学に行くことが出来るようになってから留学に行くということに対するハードルは確実に下がっていると言えるでしょう。
現に留学者数は1980年度が約1万5千人であったのに対し、2010年度は約5万8千人となっています。
2004年度の約8万3千人というピークに比べると減少していることは確かではありますが、依然としてここ30年で留学者数は4倍以上に跳ね上がっています。
[学生団体設立]
私が在学している都留文科大学に於いても私が代表を務めている子ども食堂プロジェクト、友人が代表を務めている古民家再生プロジェクト等々、挙げれば枚挙にいとまがありません。
以上のようなことから、大学に進学した者の中で留学・学生団体設立という形で希少性を得ようとしている学生が増え続けつつあるということはまぎれもない事実と言えるでしょう。
希少性を得る為に始めたことがブームとなってしまうと、留学・学生団体設立だけでは希少性は得られなくなってしまうことは明らかです。
留学にしても学生団体設立にしても、ただ留学すれば、ただ学生団体を設立すれば希少性が得られるという時代はとうに終わりに近づいていると考えます。
であるならばどうすれば良いのでしょうか?
この問いに対する私なりの答えも合わせて「大学全入時代に大学を考える②」で詳らかに述べていきます。
青野