脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

教育基本法を考える②

前回に引き続き今回も教育基本法と実際の学校現場とを比較しつつ論を進めていきたいと思います。

 

国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

 

上記は

教育基本法第1章 教育の目的及び理念

第4条 教育の機会均等の第3項をそのまま引用したものになります。

 

小学校・中学校が義務教育期間であることは言うまでもありません。

加えて

教育基本法第2章 教育の実施に関する基本

第5条 義務教育の第4項には

国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

とあります。

 

さらに

教育基本法ではありませんが

日本国憲法第26条 教育を受ける権利、教育の義務

第2項にも

すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育はこれを無償とする。

とあります。

 

このことから義務教育期間である小学校・中学校に於いて授業料が徴収されないこととなっています。

そして日本国憲法で義務教育は無償であることも保証されています。

 

実際は...?

ただ実際の学校現場では授業料が無償であったとしても、修学旅行の積立金・給食費・教材費等々...

本来であれば、無償であるはずの義務教育を受ける為に月に数千円程度の負担が各家庭に強いられています。

  • 月に数千円程度なら払えるだろ!
  • それくらい払えないのは親が悪い!
  • 所詮親の努力不足だ!

と自己責任論に押し込めてしまうことは簡単です。

 

矛先の転換

確かに保護者は自らの子女に普通教育を受けさせる義務を有しています。

ただその義務を果たすことを国が憲法で無償である、と保証しているにも関わらず実際は毎月ある程度の金額を負担しなければいけない、というのは明らかに矛盾しているのではないでしょうか?

月に数千円程度の負担が難しい家庭を責めるのではなく、本来は無償であるはずの義務教育に金銭的な負担を強いているという制度そのものを問題視した方が良いのではないか、と強く思います。

 

よくありがちな批判

この問題の行き着く先として

よくありがちなのが

  • 財務省がお金を出さないからだ!
  • 文科省は現場のことを何も分かっちゃいない!

等々、行政批判だと思います。

確かに行政を批判することももちろん必要だとは思いますが、行政にも行政なりの考えがあって義務教育を無償としていないのでは?

という新たな視点に立つこともまた必要なのではないでしょうか?

 

積極的な意見発信

先に述べた新たな視点に立ち、そのうえで

何故義務教育を無償とすべきなのか?

という質問に対して誠実に答えることのできるように理論武装することが必要になるでしょう。

私のように憲法というアプローチでも良いでしょうし、実際に月数千円程度の金銭的な負担が困難な家庭が結束し、「当事者の声」というアプローチももちろん良いと思います。 

 

何れにしても

「保育園落ちた!日本死ね!!!」

という端的で、かつ逼迫したメッセージが国会を動かす時代に来ている今、私たちにも出来ることは必ずある!

と私は思います。

 

青野

 

 

 

 

歪な古文暗誦文化

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

   これが平家物語の冒頭だと分かる・覚えていることに、なんの意味がありますか?今回は古典の思考停止ともいえる暗誦文化についてです。

覚えて何になるのか

   中学で平家物語の冒頭や「月日は百代の過客にして」と奥の細道の冒頭を暗誦することで何の力がつくのでしょうか。私はこういった冒頭だけを覚えていて役に立ったということがありません。暗誦をさせる先生方に、何を目的として生徒にさせるのか伺いたいところです。またそれを生徒に伝えているのでしょうか。

   その上暗誦テストがあれば、何のために覚えるのか生徒は分からないまま覚えて採点される。古典嫌いが生まれる一因だと考えます。社会に出るとき必須な能力を養うと、アクティブラーニングなどを提唱する傍らでこれでは支離滅裂です。

なぜ特定の古典だけ?

   平家物語源氏物語奥の細道など、冒頭を暗誦させられる古典は数多くあります。疑問を呈したいのは、なぜ特定の古典だけなのかということです。漢文の春望・春眠暁を覚えずを覚えている人は少ないのに、川端康成の雪国の冒頭を覚えている人は少ないのに、特定の古典は覚えている。なぜ…?意図や目的は考えず無意識的に「覚えるべきもの」という意識があり、通例化しているからではないでしょうか。伊勢物語の東下りにある和歌は覚えさせるのに、百人一首は自分も覚えていない。教科書に載っているから、みんな覚えるものだからという考えで暗誦を課しても意味を持ちません。

目的化した暗誦はNG

   繰り返し音読することは古典特有のリズムと言葉遣いを感じ、語句の理解を確認する上で有効な手段です。音読を「しなければならない状況にさせる」ために暗誦をさせることは一つの方法といえます。暗誦するために生徒は何度も音読することになります。

   しかし暗誦が目的では、覚えて何になるのかという問いに戻ります。

 

   教員になる者は、みな元は生徒です。授業を考える際は自身が受けた授業の記憶が大きく関わります。古文暗誦のように自分が経験していたものでも、その当たり前と考える授業に果たして意味はあるのか、生徒にどんな学びがあるのか、一歩立ち止まって考え直すことを忘れてはならないと思います。

    以降、個人的な考えですが古典の授業で大切にしたいことをブログで述べていくつもりです。今回は、無意味な暗誦はさせるべきではないという考えでした。

 

 

教育基本法を考える①

教育基本法の条文と今現在学校が抱える課題等とを比較しつつ、私なりの考えを5回(あくまで予定。変更する可能性あり)に分けて述べていきたいと思います。

 

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

皆さんご存知の通り、上記は

教育基本法第1章 教育の目的及び理念

第1項 教育の目的をそのまま引用したものになります。

 

この条文から教育の目的は「人格の完成」であることが分かります。

 

ただ今現在、学校で行われている教育は「人格の完成」を目的とするに相応しいものとなっているのでしょうか。

 

このように私が考える理由として

  1. 受験・入試の為の学校
  2. 生徒指導のスタンダード化

の2点が挙げられます。

 

高校受験の為の中学校?

私が今、週1回のペースで授業見学をさせていただいている某公立中学校の廊下にこのようなはり紙がしてありました。

「高校の授業は中学校の授業のうえに成立している。54.1%が大学に進学する現代、学びはずっと続いていく!」

若干の齟齬はあるかと思いますが、大体このような文言でした。

何となく言いたいことは分かるのですが、この文言だけを見ると、中学校に通っているのは高校受験の為、ひいては大学受験の為、だと捉えられてしまいます。

受験の為に学ぶのであれば、わざわざ学校に行く意味はありませんし、塾や家庭で勉強すれば良いと思います。

学びがずっと続いてくことは確かなのですが、もっと他に例は無かったのでしょうか。

さらにこの張り紙の下には某予備校が発表している偏差値ごとの大学ランキングが、でかでかとはられていました。

受験の為の学校で果たして生徒の「人格の完成」を目的とする教育基本法の理念は達成されるのでしょうか。

受験の為の学校で「人格の完成」が果たされるのであれば、学校という仕組みそのものを塾や家庭に委託しても良いでしょう。

 

ゼロトレが果たす役割

生徒指導がゼロトレランスの導入等によりスタンダード化されています。

確かに生徒指導をスタンダード化することで、教員の負担がグッと減ることは間違いありませんし、教員が生徒を指導するうえで困難だと感じていることもゼロトレの導入により万事解決されるでしょう。

しかし、ゼロトレを導入し生徒指導をスタンダード化させることは生徒の為になると言えるのでしょうか。

生徒の「人格の完成」を図る為には生徒指導する際に各生徒に合わせた対応が必要とされることは言うまでもありません。

 

「人格の完成 」の為の学校にしていくためには

私が「人格の完成」と今現在、学校で行われている教育とが乖離していると考える理由を2点挙げました。

理由を挙げるだけであれば誰にでも出来るので、ここでは更に一歩踏み込んでどのようにすれば「人格の完成」が果たされるのか、私なりの考えを述べると、、、

生徒が学校に来ていることを当たり前だと思わない!!

一見当たり前のことのように思われるかもしれませんが、上記のことを常に念頭に置くことが出来ていれば、受験・入試の為の学校にすることもゼロトレを始めとする生徒指導のスタンダード化も自ずから無くなっていくのではないでしょうか。

 

青野

 

言葉で表現することの危うさ

前回のブログでedcampに参加した旨やedcampを通じたネクストアクションについてお話しました。

 

今回はedcampである公立学校の先生がおっしゃられていたワードをもとに私なりの考えを述べていきます。

 

言葉で表現することで分かりやすくなることも多くあるが、表現の仕方を誤ると実態とは大きく乖離してしまう。

 

言葉だけで言っても今ひとつイメージが掴めないと思うので、ここで具体例を一つ。

よく教職課程の授業を受けていると、荒れたクラスの実態が言葉で表現されているレジュメに出くわすことが多々あります。

並んでいる言葉を見ると

  • 授業中、立ち歩く生徒が多くいる
  • 授業中、私語が絶えない
  • 授業中、クラスを抜け出してしまう生徒が目立つ

とまあ、この言葉だけを見るとこのクラスの授業は凡そ成立していないと言えるでしょう。

 

言葉で表現=実態に即している?

しかし実態は

  • 立ち歩くと言っても、50分授業のうちの5分程度のみ
  • 私語が絶えないというのは、あくまで教員側の主観で私語が絶えることも勿論ある
  • クラスを抜け出す生徒はトイレに行く為であり、目立つというのもあくまで教員の主観

 ということも無きにしも非ずだと思います。

 

実態に即した言葉選び

先ほど挙げた具体例はあくまで一例なのですが、「授業の様子」という一場面を切り取っただけでも言葉と実態とがあまりにも乖離していることが分かります。

 

私がここで述べたいのは、言葉と実態は即していないことがあるのだから、実態を言葉で表現することはやめた方が良い!

ではなくて、表現された言葉のみで判断するのは危険だよね?ということです。

 

私を含め、言葉という形で分かりやすく表現されたものがあれば、安易にそれに飛びついてしまいがちです。

言葉というフィルターを通さず、自らの目で実態を見る・感じる・考えることもまた言葉で表現されたものを読むことと同じ、もしくはそれ以上に大切になってくるのではないでしょうか。

 

表現理解+実態観察

=真の理解

このようなことから上の式が導き出されます。

何事に於いても言えることだと思いますが、何か一つの事物を理解しようとする時、大抵、人は言葉で表現されたもの(本、インターネット等)をまずは理解しようと努めます。

 

言葉で表現されたものを理解することそのものはとても大切だと思いますし、言葉で表現されたものをまずは理解しようとすることそのものを否定しよう!という気はさらさらありません。

 

言葉で表現されたものだけでは...

言葉で表現されたものだけで、何か一つの事物を理解しようとすると、必ず事実との齟齬が生まれます。

その齟齬が生み出す弊害は計り知れません。

 

このような齟齬をなくしていく為にも、

 見る・感じる・考えることの重要性を今一度問い直す必要があるのではないでしょうか。

 

国語教員を目指す者として

言葉で表現されたものの脆弱さを再考すべきだと強く感じます。

 

青野

 

読書感想文の是非2 (廃止論)

   読書感想文が何のためにあるのか、私ははっきりと理解できたためしがありません。好きという人に出会ったこともないし、良さと狙いを説明した上で課してきた先生もいません。自分が教壇に立つ時も希望制にしたいと思っています。

   理由は3つです。

  1. 文章を書くために本を読みたいか
  2. 内容へのレスポンスもできない
  3. 小説家への道を強制するな

以下はこの理由について詳しく述べていきます。

 

文章を書くために本を読みたいか

   読みたくない人が多いはずです。

   私は、文章を書くために読んだ本の感想文の大半はロクなもんじゃないと考えています。感想文を書くために感動して物事を考えることに意味はありません。(1で指摘した暗黙の了解を踏まえた)素晴らしい感想文も中にはあるでしょうが、そんな文章を書いた人にたいして私は「本の内容覚えてる?何に感動した?今の考え方にどう影響してる?」と聞いてみたいものです。しっかり自分の素養としている人もいると思いますが極少数で、多くの生徒は本の内容や感想ともに忘却の彼方ではないでしょうか。

   各々が好きな本を、好きなだけ読んで、好きなだけ自分の頭で考えて楽しめばいい。そう思います。

 

内容へのレスポンスもできない

    あなたは感想文を書いて先生に提出しました。その後どうなりますか?

   大半はそれで終わりです。優れた感想文だと評価されればコンクールで賞をもらって終わり。作文を返却されても花丸だけでコメント1つ無し、という例を友人から聞いたことがあります。書き方を教えない中で書けと課し、教師自身は文章にコメントすることもできない。これでは生徒も何のために感想文を認めるか分かりません。読書感想文を形骸化した悪文化に教師が変えてしまっている状況です。

 

小説家への道を強制するな

   文章を書く上で最も重要なのは「自分にしか分からないことを誰にでも分かりやすいように認める」ことですが、最も難しい原則でもあります。まして自分の気持ちを正確に他者に伝えることは至難のワザです。

   読書感想文には、文法知識や語彙を求められ、暗黙の了解に基づいた本まで読んで、この原則が待っています。しかもここが好き・嫌い・どう思うということが一言で終わるような小学校低学年でも原稿用紙2枚(800字)という長さ。また学年に伴って量も増え、中学生になると5枚(2000字)にもなります。読書感想文は難し過ぎるのです。それなのに書き方はロクに教えず、原稿用紙と一緒にリーフレットを生徒に渡すだけ。これで生徒に小説家になれと強要しても、作文嫌いを助長するだけです。

 

   Yahoo!で「読書感想文」と検索すると「読書感想文はコピペで済ませよう!そのまま使える例文を一挙10件公開」なんて記事が最初にヒットします。読書感想文の是非1や原稿用紙の憂鬱(当ブログ記事)で述べたことも鑑みれば、百害あって一利なしといっても過言ではありません。書くのが好きだという生徒も中にはいると思うので、私は教壇に立った時、書きたい者が書く希望制にしたいと考えています。

 

佐藤

 

 

 

読書感想文の是非1

    みなさんは読書感想文を覚えていますか。夏休みの課題としてこなした記憶が多くの方にあるのではないでしょうか。『ライ麦畑でつかまえて』『アルジャーノンに花束を』といった代表的な課題図書から自由図書まで「自由に」書き記すあの感想文です。

    1955年から読書活動促進を目的として今日まで続いています。私はこの読書感想文、書くのが本当に億劫でした。読書が嫌いという訳ではありません。むしろ本の虫とまではいきませんが、特に中高校生の時はよく読んでいました。感想文が嫌いだったんです。

   そして教員を目指している今はなおさら「どうなんだ…。」という思いが考えるたびフツフツと湧いてきました。その疑問を何回かに分けて書いていきたいと思います。今回は「自由」という点に絞りました。

「自由」な内容

   本が面白いかどうかなんて人それぞれ。内容の解釈も十人十色です。『ごんぎつね』でも猟銃で打たれたごんが可哀想だという意見があれば、最初から悪戯をしなければ済んだ話だという意見もあるはず。

   しかし読書感想文では、本の内容に否定的な(面白くなかった)意見で書かれたものは表彰されません。本を読んでどれだけ心を動かされたか・物事を深く考える契機となったか等、肯定的な文章だけが良い感想文として評価されます。

   仮に読んだ本が面白くなくて素直にその気持ちを表現しても、いくらその気持ちを論理的に分かりやすい文章でまとめても、評価はされない。これはどうなのでしょうか。自由と謳っておきながら、全ての本が全ての人にとって素晴らしい内容だという前提で文章を書けと強制している。「読書(した本の内容を素晴らしいとする)感想文」というおかしな暗黙の了解があるはずです。

「自由」な書き方

   「感じたこと・考えたことをそのまま自由に書けばいいよ。」これは読書感想文に関わらず、作文をする際によく先生から発せられるアドバイスです。そしてそのアドバイスを受けた生徒は困ります。「書き方が分からないんだよ…。」と。 感じたこと・考えたことを書くことくらい、誰でも分かることです。生徒の筆が止まるのは他のところに原因があるのではないでしょうか。

    私は原因が二つあると考えます。一つ目は感想文の書き方が分からないこと。二つ目は気持ちを文字化するのが難しいこと。今回は前者について触れます。

   「エッセイ書いて!」と言われて書き方を具体的にイメージできますか? いきなりですが、そういうことなんです。

    感想文・論文・感謝状…と文章の種類は様々です。一方でその書き方はほとんど教えられる機会がありません。書写の時間に字の練習として種々の文章をなぞる程度の記憶しか私にはありません。形式を知らない上で自由に書けと言われても、選べる書き方が無いのです。

    「自由」はある一定の枠組みの中で存在するものです。社会ではルールの範囲内で自由に行動でき、ディナーバイキングでは用意されたメニューの中からは好きなものを選べます。作文も、書き方を知っている中で初めてどのように書くか考えることができます。まずは種々の文章の「書き方」を教える必要があるはず。読書感想文はこの点をよく見ずに課せられることが多いのではないでしょうか。

    今回は「自由」というテーマで触れましたが、数回ほかのテーマで読書感想文について考えることをまた気が向いた時に書いていきたいと思います。 

 

佐藤

   

    

 

これから30日で行っていくこと

1/15(日)に御茶ノ水にあるデジタルハリウッド大学で行われた「edcamp 東京」に参加してきました。

 

edcampとは?

edcampは従来のセミナーや研修とは異なり、参加者が主体となってテーマ決めやセッションにおけるファシリテイトを行う、というイベントになります。

完全に参加者主体ですので、主催者も当日どのようなイベントになるのか全く予想が出来ません。

 

契機としてのedcamp

ゼミ活動の一環として9月の下旬に開催された「edcamp 鎌倉」に参加したのですが、そこでは際限なく繰り広げられる議論についていくことができず、参加者の熱量に圧倒され、ただただ自らの無知を痛感させられました。

と同時に自分の価値観がいかに狭かったのか、ということも思い知らされました。

 

自らの振り返り

「edcamp鎌倉」から4ヶ月弱、私なりに猪突猛進してきたつもりだったのですが、「edcamp東京」に参加された方は私とは比べものにならないぐらい猪突猛進されており、自らの無知を痛感させられました。

が、私が猪突猛進してきたことは間違いでは無かったのだな、ということも様々なセッションを通じて感じることも出来ました。

 

ネクストアクション

ここで本題に入ると、edcampではセッション終了後、クロージングでネクストアクションとして「これから30日で行っていくこと」を5人程度のグループ内で発表します。

私はこのクロージングで

  • 面白い人を都留に招き、都留の学生が新しい風に触れることのできるようにする
  • 新しい風に触れることで、今現在の各人の学びに危機感を持ってもらう

以上の2点をお話しました。

 

都留文科大学の現状

私が在学する都留文科大学は近辺に大学が無く、日本トップレベルの運賃の高さを誇る富士急行線の沿線にあることから、なかなか学生が外部の人と関わろうとしません。

 

外部の人と関わる機会を外部で設けても、すぐに言い訳をして、アクションを起こさない理由を探すことに躍起になっています。

 

何とかしたい!!

私はこのような状況を打破する為に、出来る限り多くの外部の人を都留にお招きし、講演会やワークショップという形で新しい風を都留に吹かせてほしい!と強く思っています。

 

全体を変えるのでは無く、一部を変える

外部の人と都留で関わったところで、アクションを起こす学生は先ほど述べた本大学の事情から、ごく一部だと思います。

ただそのごく一部が変わるだけでもかなりの成果が得られると考えます。

ごく一部が変わることで、その変革が徐々にではありますが全体に浸透していくでしょう。

 

今現在、既にお二方が都留に来てくださり、講演会をしていただくことが決定しています。

教職志望の学生に新しい風を吹かせていただける方は是非私の方にご一報くださると有難いです。

 

青野