脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

担任はクラスでどうあるべきか

   どうあるべきでしょうか。よく「共に学んでいける教師」という言葉を聞いたりします。授業もするし叱責したり果てには定められた範囲で懲戒だって色々するのに、共に学べる教師ってなんだよと個人的には思う訳です。一緒に成長するとかなんとか、これもまたポエムではいけないと思って考えていたところ、ある漫画を参考にこうじゃないかなと考えました。

担任はクラスのであるべき

   ちょっと中2クサイ感じですね。でも僕漫画大好きなんです。

   王の役目は

正しさを掲げ、大勢を率いて前に進まなければならない。王者の正義が揺らげば他の者も迷ってバラバラになろう。

という感じです。大勢(クラスの生徒)に自分の思う正しさを掲げ、毎日のHRにはじまり色んな機会に話をして、時には生徒を叱責して、一緒に学園生活を送ります。クラス開きなんていう仕切り役も担任の役割。結局教師ってものは、自分の思う正しさを掲げて生徒を指し導く役目を背負ってるんじゃないでしょうか。

    「自分も未発達だから生徒と共に成長していく」ならそれは生徒と同じ。共同生活を送りながら、教師には「指導」という役目があります。教室で共に暮らしていく人間として、生徒とは一線を画すアイデンティティでもあると思います。

   「指導」するには、自分の考える正しさがなければなりません。万引きした生徒に「一緒に何が悪いか考えよう」なんて言う人がいるでしょうか。いじめをした生徒に「なんでいじめが悪いか先生の考えが絶対なんてことはないから一緒に考えよう」なんて言ってたらクラスは破綻です。正義を示しながら特定の生徒だけ別扱いなんてのももってのほかです。揺らぐどころか矛盾です。

    ちなみに僕は教師が一人称を、僕にしようが俺にしようが先生にしようが、なんでもいいと思っています。「先生という立場を誇示している」「一人の人間として生徒と向き合うべき」という意見もあるかもしれませんが、学校で指導する大人は紛れもなく先生です。なんで先生が先生と言っちゃいけないんだとずっと思います。医者に「僕は一人の人間です。堂々と医者とは言いません。」と言われながらお前はガンだの、この薬を飲まないといけないだの言われた患者はどう思うでしょうか。

神ではなく、王

   それでも、それが思う全てが正しい全知全能・信奉対象のキリストみたいな神という態度でもよろしくありません。教師といっても一人の人間なので(ここではそう考えてます)、正しさを違えてしまうことも勿論あります。揺らいだり、自分の考えていることが正しいのかどうかという不安もあります。

   絶対に正しくあり続ける人もいません。個人が考える正しさ・思想は時代や他の人と関わることで変わり、生きている間に何度も変化します(これが道徳かと思ったりもします)。僕の恩師はこれのために書物があるなんて言っていました。

    自分の信じる正しさを絶対視して他の人をその通りにするのではなく、常に自分の信じる正しさを疑い、他の(人や生徒の)意見を積極的に取り入れながら精査して指し導き自分も周りも成長させられるクラスの王。これこそ「共に成長できる教師」であり、担任として、身近な一人の大人として在るべき態度だと考えています。

   だから僕は、教壇に立ったら生きていく上で伝えたい・自分が正しいと思うことは色んな形で伝えていきます。毎朝黒板にメッセージを書き、HRで話をして、叱責するときはして、週一日記のやりとりをして、学級通信を配布して…。

 

『走れメロス』を覚えていますか?①

 

こんにちは。

 

今までの僕のブログを毎回
読んでいただいている方にとって

色んなことを発信しているこいつは

 

大学で何を勉強してるんだ?

 

という疑問を抱かれた方は
少なからずいらっしゃることと思います。

 

僕は今
都留文科大学という大学の
文学部国文学科に所属しており
源氏物語』や近代文学を読んだり...

正直子どもの貧困や不登校支援とは
全く異なった勉強を大学ではしています。

 

加えて僕は国語教育学ゼミに所属しているということあり
今回は国語教育学ゼミ生らしいことを書いていこうと思います。

 

走れメロス』を覚えていますか?


タイトルにもある通り
皆さんは『走れメロス』という作品を覚えているでしょうか?

 

走れメロス』は皆さんご存知の通り

太宰治の短編小説で
中学校国語教科書界のシェア率が
90%を超える4社(光村図書、教育出版、東京書籍、三省堂)全てで
採択されており

主に中学2年生で
学習する内容となっています。

 

恐らく

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

という独特な冒頭でピンと来た方も多いことと思います。

 

皆さん既にご存知とは思いますが
ここで『走れメロス』のあらすじを軽くおさらいしておくと

 

純朴な羊飼いの青年メロスは、妹の結婚式の為に訪れた町の様子がひどく暗く落ち込んでいることを不審に思い、市民に何が起きているのかを問う。
そして、その理由として極度の人間不信から多くの人を処刑している暴君ディオニス王の話を聞き、激怒する。
メロスは王の暗殺を決意して王城に侵入するが、あえなく衛兵に捕らえられ、王のもとに引き出されることとなる。
当然処刑される事になるのだが、メロスは親友のセリヌンティウスを人質として王のもとにとどめおくのを条件に、妹の結婚式をとり行なうため3日後の日没までの猶予を王に願う。

メロスは急いで村に帰り、誰にも真実を言わず妹の結婚式を急ぎ、式を無事に終えると3日目の朝をまだき、王宮に向けて走り出す。
難なく夕刻までに到着するつもりだったのだが、度重なる不運に出遭ってしまう。
メロスは全力で、度重なる不運にもめげることなく体力の限界まで達するほどに走り続け、日没直前、今まさにセリヌンティウスが磔にされようとするところに到着し、約束を果たす。

セリヌンティウスに、ただ1度だけ裏切ろうとした事を告げて詫び、セリヌンティウスも1度だけメロスを疑った事を告げて詫びた。
そして、彼らの真の友情を見た王は改心した。

 

という感じになります。

 

走れメロス』から学んだこと


皆さんはこの『走れメロス』から
どのようなことを学びましたか?


ちなみに僕は

 

「正義、友情は権力にも勝るのだ!」

 

という一種のヒロイズムを
走れメロス』から学んだ記憶があります。

 

皆さんがどのようなことを
走れメロス』から学んだのか
知る由もありませんが
多少の差異はあれど
おおかた先に述べたようなことを
学んだのではないでしょうか。

 

確かに
走れメロス』という作品から

 

「正義、友情は権力にも勝るのだ!」

 

という学びを得ることも
もちろん大切かもしれませんが
果たしてそれだけで良いのでしょうか。

 

それだけを学ぶのであれば
国語の授業で『走れメロス』を
取り上げる必要はないと僕は思います。

 

では

 

「正義、友情は権力にも勝るのだ!」

 

という以外のことを
走れメロス』から国語的なことを学ぶ為の
僕なりの考えに関する

糸口となり得る部分を最後に示して
走れメロス』を覚えていますか?②
に繋げていきたいと思います。

 

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。

 

次回以降も

引き続き宜しくお願い致します。

 

ミライノート

    前回の記事で触れた未来ノートについて今日は書いていきます。

  目標を明確に、未来を想像することについては卒業文集の記事でも触れてきました。実習中に見てまわった二年生(中学)の教室の壁には生徒一人一人の目標が貼ってあったり、本を読んでも「目標を確認する」大切さを毎度感じています。

   それを実行するためにも、最近「ミライノート📔」を始めました!

デスノート

   みなさんご存知『DEATH NOTE』に出てくるデスノートは、書かれた者の未来を全て決めることができます。どこでどうしてどんなことを言ってどんな風に命を落とすかを全て書いた通りに操作できる史上最悪・最強の殺人兵器でした。

   それの逆バージョン!ということで、書くのは自分の死ではなく未来!一か月後・一年後・三年後・十年後にどうなっていたいのかを逆算して明確に書き記しておくノートです。具体的に書くのが重要だとか色々最近学んだので、デスノートのように事細かに記していきます。最終的な目標はもちろん、そこに行き着くまでの過程も段階的に書いて自分に宣言します。

   つまりは夢や目標を書いていく夢ノートの類です。あえて未来ノートとしたのは、「〜したい」という「できないかもしれないけど」な願望ではなく確実に実現させる目標だから。

    これを続けて、目標に向かって邁進することに決めました。

まずは

   教師になることについての目標ももちろんですが、直近は一か月後に控えたウルトラマラソンがあります。今日でジャスト一か月。「ウルトラマラソン完走」が最終的に行き着くところですが、これを紙に書いて部屋に貼るだけではなく日を歩む毎に何度も見返して自分に宣言するために、ノートです。

   教室の短冊には少ししか書けませんが、ノートにはいっぱい書けます。教室に飾る目標も、画用紙に書いてただ後ろの方の壁に貼って終わりではなく、何か他の方法を足して確実に目標に向かってスタートを切れるような工夫が必要な気がしました。

 

先生になる為に先生になる?

 

こんにちは。

 

ブログを投稿し始めて

はや2週間が経ちました。

 

毎回

沢山のいいね!をくださり

本当にありがとうございます。

 

「学校の先生って先生になる為に先生になっている人が多くない??」

 

これまた先日参加した
『第12回全国若者・ひきこもり協同実践交流会』で
ある方から言われたことです。

 

言い方が少しまどろっこしいですが
僕なりにこの方がおっしゃられたことを噛み砕くと...

 

・学校の先生を目指す人は【先生】という職になる為に学校の先生を目指していることが多い
・学校の先生は【先生】という職に就くことがゴールになっていて自分がどのような教育をしたいのか、具体的なビジョンを持ち合わせていないことが多い

 

となるでしょうか。

 

確かに
教職課程の授業などで
グループワークをする際に
具体的かつ明確なビジョンを持って

教師を目指しています!
という人にあまり出会ったことはありません。

 

もしかしたら
具体的なビジョンを持ち合わせている人もいるかもしれませんが
それを言語化されたものとして聞いたことは
あまりありません。

 

前々回のブログで
「どのような教師を目指すのか?」
ということを書きましたが


どのような教師を目指すのか?


ということももちろん大切だとは思いますが
やはり


何故教師になるのか?


という問いにも

誠実な答えを出さなければいけないのだな、ということを痛感しています。

 

ただ


何故教師になるのか?


という問いに対する答えと


どのような教師になるのか?


という問いに対する答えは

僕に関してはかなり似通っています。

 

なぜなら
どのような教師になるのか?
という問いに対する答えを
最も成し遂げやすいのが教師だと
僕は考えています。

 

困っている子を少しでも救う為には
民間団体でも良いのでは?

 

という問いが投げかけられることが
想定されますが
『子どもの貧困対策推進法』にも
「学校をプラットフォームに」
という文言がある通り
やはり

子どもにとって
学校は切りたくても切り離せないモノ

であることは間違いないと思います。

 

そのうえで
「学校をプラットフォームに」して
困っている子どもを救う為に
教師になろう、とそういう風に考えています。

 

まだまだ未熟ではありますが
この思いを具現化出来るよう、日々精進して行ければなと思います。

卒業文集の記事について

http://kyouiku01.hatenablog.com/entry/2017/01/22/225257

http://kyouiku01.hatenablog.com/entry/2017/01/24/000819

 

   これは以前の僕の記事のリンクです。2ヶ月程のブランクがありますが、この記事についての加筆を行います。

少年よ大志を具体的に抱け

   スーパースターの卒業文集を例に、未来への視点と目標を具体的に書き記すべきだと書いています。「具体的にすれば、次にするべき行動が見えてくる」ということです。これと通じるところが『No. 1理論』という本に書いてありました。 2ヶ月のブランクの中で読んだ内の1冊で、

人間の脳はプラス思考、プラスイメージ、プラス感情になると信じられないほどの力を発揮する。著者の開発したブレイントレーニングの概要を示し、自分の脳に革命をおこす方法を紹介する

内容です。この本を踏まえて卒業文集の記事の加筆を行います。

   人間はいきなりプラス思考を目指したところでどうしてもマイナスイメージが先行して挫折してしまうから、まずはイメージと感情を思い浮かべることがプラス思考の基礎になるということでした。今回はこの「イメージ」について焦点を当てていきます。

具体的な大志をイメージ 

   スーパースターの卒業文集は自分が実現を望む未来を、時期・大会・年収や試合の点数の数字まで事細かに記していました。これはどうなるか全く分からない未来のことであくまでイメージしただけのものですが、このイメージが大事だったんです。

   イメージして、目指すから、未来の自分と現在の自分を比べられる。比べると自分の足りていない部分が分かり、次にどうすればいいかが見えて、やって、力がついていく。本にはエジソンが電球を開発する時の例が取り上げられていました。どんな風になりたいのか・何をしたいのかが具体的であり続け、初めて実現へ近づくことができる。失敗も自分が思い描いている成功の素と、挫折するはずの場面でもプラス思考でいることができる。

   「簡単に言うけどずっと目標を具体的にイメージするなんて難しいんじゃないの?」という声もあるかもしれません。そこで、文章です。

    普段イメージする習慣が無くても、長い時間をかければ0から1へは到達できるはずです。文章は長い時間をかけて考えを練り、満を持して作成できます。文集として残しておけば、自分がもし具体的なイメージを忘れかけても読んで蘇らせることがいつでもできます。そういう意味でも、過去を振り返ってばかりの文集から脱却するべきだなと思ったりします。自分史があったり、色んな文集があってしかるべきかもしれませんケド…!

   以前は「具体的にすれば、次の行動が見えてくる」くらいと考えていましたが、未来実現への第一歩だったんです。卒業文集をただ書かされる・書かせるものと考えず、色んな意味を見出していきたいなと思います。

   あまり長くなっても仕方ないので、気になった方は『No. 1理論』を是非読んでください。ここではほんの一部分しか触れてないです!

 

   とか言いながら、まずは自分が色々やってかんとあきませんよね…💦ということで、次は最近始めた「未来ノート」について書こうと思います。デスノートのポジティブバージョンです。笑😈

   

 

このままの教職課程で良いのか?

 

こんにちは。

 

ブログを始めて早2週間弱。

 

毎回
沢山のいいね!を下さることで
こんなにも沢山の人に見ていただいているからこそ
半端な文章じゃあかんな、と思い
僕なりに何度も加筆修正を繰り返しつつあと残り2週間強
突っ走っていきたいなと思います。

 

今回は少し過激なタイトルからも分かる通り
教職課程に籍を置いている身として


このままの教職課程で良いのか?


と僕が感じたことをもとに教職課程に対する

問題提起を中心に述べていきたいと思います。

 

先に述べておきますが
これから述べることはあくまで
僕が個人的に感じたことをもとに

問題提起をしているに過ぎないので

教職課程そのものを批判しているのではない、
ということを念頭に置いていただけると幸いです。

 

年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、及び/又は衝動性、
多動性を特徴とする行動の障害で、社会的な活動や
学業の機能に支障をきたすものである。
また、7歳以前に現れ、その状態が継続し、
中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される。

 

いきなり気難しい文章が出てきて混乱される方も
いらっしゃると思いますが


これは手元にある教員採用試験対策テキストにある
ADHD(注意欠陥多動性障害)の説明になります。

 

この文章を読んでいただいても分かる通り
教職課程ではADHDを含めた教師になる上で必須となる様々なことに関する
【知識】を学びます。

 

この【知識】を持って教職課程の学生は
教師になっていくわけですが
この【知識】だけで果たしてADHDを含めた
様々なバックグラウンドを抱える生徒に対して
適切な対応をとることは出来るのでしょうか。

 

確かに【知識】は無いよりかはあった方が良いと思います。

 

ただ
この【知識】のみでADHDを含めた様々な
バックグラウンドを抱えた生徒に適切な対応をしていくことは至難の技と言えるのではないでしょうか。

 

このことを僕が痛感したのは
塾の講師としてADHDの疑いがある生徒の指導をした時でした。

 

この生徒は


・手遊びが絶えない
・宿題をまずやってこない
・話をする時に目の焦点が合っていない


などといったような症状が見られ
正直どのような対応をしていけば良いのか、

そのことに気付いた当時は完全に手探り状態でした。

 

ただ
様々なバックグラウンドを抱えた方々とお話をさせていただく中で
本当に何となくではありますが
この生徒に対してどのようなことを
していけば良いのか、が見えてきたような気がしています。

 

この経験から、僕自身は
【知識】のみの脆弱さを痛感しました。

ただ


「【知識】のみの脆弱さを理解し
そのうえで経験・体験をもっとしよう!」


と言っても具体的に何をすれば良いのか正直分からないと思います。


僕も
具体的に何をすれば良いのか、
という問いにはっきりとした答えを出すことは現時点では出来ません。

 

ただ

【知識】のみの脆弱さを理解する

だけでもかなり変わってくるものはあるのではないでしょうか。

卒論代行!?

 

   以前Facebookを見ていてびっくりしたのが、「卒論・論文代行会社」の存在でした。

   料金はそれなりにかかるようですが、調査資料や文献を送ると超短期間(最短一日)で論文を作ってくれるというのです。一見なんでそんな会社があるんだ、作ってもらってどうするんだという言葉が聞こえてきそうな内容。個人的にもそういったところに任せるのはどうなのかなと思うところもありますが、ホームページにこんな言葉が載っていました。

   ほとんどの人は卒論や昇進論文の執筆経験がありません。

   天才でもない限り、経験が無い卒業論文や昇進論文をいきなり書き上げることはできません。練習したことがないので、論文を書けなくても仕方がないことだと私たちは思っています。

以前にこのブログで書いていたことと同じです!「書き方を知らずして書けるはずがない」卒論代行のホームページでこの言葉に巡り合うとは思ってもみませんでした。

   少し話は変わりますが、一年前まで役員の仕事の一環で卒論集を学生に売ることがありました。「卒論の見本でもあるから、そういう意味でと読んだ方がいいよ。」と教授も仰っていましたが、実際学生はほとんど見向きもしません。卒業論文なんてほとんどの学生が書いたことがなく、文字数面でも半分以下のレポートばかりだったはずなのに。

   卒業するためのハードルとして立ちはだかる面倒な論文という考えが先行。四年になってから重い腰を上げて取り組み始めると、書き方も分からず代行にお世話になったり文字数も期限もギリギリの提出でなんとか卒業、という考えは無くさないといけません。

   卒業文集とか他の文章と同様に、卒論を書く意味を自分なりに考えて年度明けに臨むようにします。