脱井蛙ブログ

教職を志す地方公立大学の学生が教育含めた様々なことを発信するブログです

教育基本法を考える④

教育基本法を考える」シリーズも4回目を迎え、いよいよ残すは5回目のみ、となりました。

 

今回は

私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方自治体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。

教育基本法第2章 教育の実施に関する基本

第8条 私立学校

について述べていきます。

 

変わりつつある私立学校

皆さんは「私立」というワードから

どのようなことを想像しますか?

私自身は小学校から大学まで全て公立だということもあり

「私立」というワードから

  • 比較的裕福な生徒が通う
  • キリスト教など様々な宗教が経営している

という漠然としたイメージを抱いていました。

2つめにあげた「キリスト教など〜」は一旦置いておくとして

1つめにあげた

「私立=比較的裕福な生徒が通う」

というイメージを抱いている方はかなり多いと思います。

 

大阪の私学助成

先日大阪にある某私立高校にお邪魔させていただいた時、衝撃的なお話を聞きました。

「うちの学校の保健室には本当に困っている生徒の為に、地域の農家さんからいただいたお米を置いてあるんですよ〜」

この言葉を聞いた時

「私立は比較的裕福な生徒が通っているはずなのに、なぜ学校でお米を貰わなければならないほど困窮している生徒がいるのだろう?」

という疑問を抱きました。

保健室にお米が置いてある、とおっしゃられた先生に理由をお聞きすると、

大阪は私学助成がとても充実していて

  1. モデル世帯(※)で年収が590万円以下の生徒は授業料の家庭負担が実質ゼロ
  2. 30万円程度の入学に関する諸費用を支払うことが出来ればOK

となっているらしいです。

 

[※モデル世帯とは、4人世帯(夫婦どちらか一方がが働き、子ども2人(16歳以上19歳未満1人、16歳未満1人))のケースのことを指します]

 

広がる私学助成制度

「私学助成」とgoogleで検索すると

大阪は勿論のこと

愛知、東京、兵庫、広島...

と様々な自治体が私学助成制度に取り組んでいることが分かります。

もちろん自治体によって

程度の差があるとは思いますが

確実に私学助成制度が日本に広がってきていることが分かります。

 

すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

上記は

教育基本法第1章 教育の目的及び理念

第4条 教育の機会均等

を引用したものになります。

 

私学助成制度を考えるうえで

反対意見として

  • 私立を選んだのは生徒自身だし、個人の選択に自治体からお金を使って支援する必要はあるのか?

があげられると思います。

確かに私立という道を選択したのは生徒自身ですし、選択には責任が伴うことももちろん分かります。

ただ

先に述べた条文にもある通り

「ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会」

が全ての生徒に与えられています。

 

教育を受ける機会を均等にしてあげる為にも日本に私学助成制度が更に広まっていくことを切に願います。

 

青野

 

教育基本法を考える③

教育基本法を考える」シリーズも第3回目に突入しました。

 

今回は

教育基本法第2章 教育の実施に関する基本

第7条 大学の第2項である

大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性は尊重されなければならない。

の条文を考えていきます。

 

大学の自主性、自律性?

大学の自主性、自律性と言われても今ひとつピンと来ない方が私含めていると思います。

ここで上記の条文の第1項を見てみると

大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を追究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

とあります。

 

大学の果たす役割

今までにあげた2つの条文を鑑みると

大学には

  • 高い教養と専門的能力を培い、それをもとに新たな知見を創造する
  • 加えてその知見を社会に提供することで、社会の発展に寄与

以上、大雑把ではありますが、2つの役割があることが分かります。

このような役割を果たす為に大学には自主性、自律性が保証されており、さらに研究の特性が尊重されている、ということでしょう。

 

安全保障技術研究推進制度

しかし、先に述べたような大学の自律性、自主性が徐々に失われつつあります。

ここで防衛省が2015年度より開始した軍事転用可能な基礎研究に助成する安全保障技術研究推進制度の予算の変化を見ていきましょう。

  • 2015年度:3億円
  • 2016年度:6億円
  • 2017年度:110億円

 

いかがでしょうか?

2016年度から2017年度にかけて安全保障技術研究推進制度の予算が約20倍になっていることが分かります。

 

この結果から考える

確かに基礎研究は民間利用であるものだとしても、異なる観点から見れば軍事に転用可能なものは山ほどあると思います。

 私は何も軍事に転用可能なものの基礎研究をやめてしまえ!

などと言っているわけではありません。

ただ安全保障技術研究推進制度の予算の変化を見ると、防衛省があからさまに大学を軍事研究の場にしようとしている現状に警鐘を鳴らしているのです。

 

大学の現状

ここまで読者の皆さんは

「そんな制度に頼らなくても大学の研究費を使えばいいんじゃないの?」

と思われるかもしれません。

話を分かりやすくする為にここでは国立大学のみに焦点を絞って述べると...

2004年に国立大学は法人化され、

以降、毎年国からの国立大学運営費交付金は削減され続け、ここ10年程度で総額1200億円以上が削減されています。

このような現状を踏まえると、とても大学の研究費に頼れる状況でないことが分かるでしょう。

 

解決策

大学の現状を述べるだけで終わると結局のところ政府を批判するのみで終わってしまいます。

それでは全く生産性がないと思うので、ここでは私なりにこの現状を打破する策として

  1. 大学の数を厳選する
  2. 研究者自身が声をあげる

の2つを考えました。

まず今現在、大学の数が余りにも多すぎます。だからこそ大学に対する国からの補助金が分散してしまいます。であるならば大学の数を厳選し、国からの補助金がなるべく分散しないような取り組みが必要だと思います。

次に大学の研究者自身が下からの突き上げで声をあげる必要があると思います。

前回のブログでも述べましたが、今はネットという手段を使うことで私含めた政府外の人間が声をあげやすい環境にあります。

現状に憂うだけでなく、何かしらのアクションを起こすことの重要性を再考する必要があるでしょう。

 

青野

 

 

 

 

 

vs 学習指導案

   自分が経験していても、やるもんだと教えられても、その「当たり前」と考えるものに意味はあるのか、一歩立ち止まって考え直すことを忘れてはならないと思いブログも書いています。今回は学習指導案についてです。

苛まれる実習生

   教育実習生は必ず学習指導案と闘うことになります。そもそも学習指導案とは

教員(学習支援者)が授業・講習などをどのように進めていくかを記載した、学習指導・学習支援の計画書

のことです。実習では必ず学習指導案を作成し、担当教諭に提出・相談の上、授業構想を進めていくことになっています。一見重要な役割で実習生が悩むのも無理はないと思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、内容とは全く違うところで苦しめられることになっています。

  それは形式です。原稿用紙の時もありましたが、形式大好き教員が実習生の担当だとこれを教員の意向に沿うよう語尾やニュアンスばかり手直しする羽目になります。ですが、学習指導案の出番は授業構想時と研究授業の資料としてだけです。それなのに形式厳守のため、想像を超える労力と手間を吸い取るクッキングペーパーとなっていることはお近くの実習生を見ると分かります。百聞は一見に如かず。

   原稿用紙の時と一緒ですよね。形式は大好き!守ってもらわなきゃ困る!といいながら、実際の意味は薄い。だからこそ教員ごとに些細な違いが多くあるのではないでしょうか。「形式だけを指摘してくる者は力がない。」という、ある先生の言葉が印象的でした。

   要らないんじゃない?と率直に思います。授業内容について考えるなら形式にそこまでこだわらず、もっと具体的な資料や実際に使う学習材を用いたり模擬授業を10分でもするべきだと思うのです。研究授業の際にハンドアウトとして提出するためでも実際見に来られる先生方は授業内容や生徒の顔や様子を見ることになり、結局指導案自体は一瞥だけで、ゴミ箱という「封印の黄金櫃」行きではないでしょうか?

   でも、指導案を作るのは通例となっているので変えがたい。そこならあの紙切れを有効に活用するためオープンソース化すべきだと思うのです。

指導案にも役割を

   『千と千尋の神隠し』の湯屋と一緒で、指導案も作るなら仕事させろという話です。

   すでにSENSEI NOTEやEDUPEDIAなどを有効に活用されている先生方もいらっしゃると思いますが、あの感じです。どうせ作るならゴミ箱に捨てる前にPDFにでもスキャンして学校毎に蓄積していけばいいんじゃないかと。そうすれば一人での実習でも代々の実習生(先輩教員)が考えた授業を参考にしたり、自分の授業案と比較することができます。教員になろうという熱意をもって作成されたものは、後輩を育てる意識の無い教員よりよっぽど味方になってくれるはずです。絶対捨てるの勿体無いです。(残念ながら教育実習は現場にとって「面倒」だと考えるきらいが、教員や大学にあるようです。もちろん手を尽くしてくださる先生方も多くいらっしゃったので…この点はまた触れていきたいと思います。)

   私事ですが、今年度のゼミの成果もオープンソース化してしっかりと形に残します。来年のゼミの参考になればな…。自分で振り返ることもすぐできるので頑張ります。

  

佐藤

   

   

作文のこれから

   以前は非難轟々の原稿用紙について触れました。今回はその原稿用紙を用いる「作文」について述べていきます。

   学校の作文といえば、読書感想文と行事作文の二大巨頭を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。とりわけ記憶に残っている後者に焦点を当てていきましょう。

   行事といっても文化祭・体育祭・修学旅行・合唱コンクールなどなど様々です。これらは現行の学習指導要領において特別活動と位置づけられ、

望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,自己の生き方についての考えを深め,自己を生かす能力を養う。

という目標のもと実施されています。生徒からしてみれば授業も休みになるうえ楽しいことづくめの特別活動ですが、しっかりとした目的があってなされていました。

   実はこの特別活動が世界の注目を集めているのです。2015年の朝日新聞も「『特活』世界が注目 」との見出しを掲げて特集しています。クラスみんなで協力して何かを進め、成し遂げることで生徒が主体的に成長していく方法となる行事が海外では当たり前ではないこと、日本はその活動を実践する最右翼だということをここではおさえておきます。

特別活動の作文

   そんな特別活動の価値が見直されている今だからこそ、行事ごとの作文の意味も見直すべきではないでしょうか。何気なく、書くことが「当たり前」だからなんの疑いもなく教師は書かせ、生徒は書いていた行事の作文は、いわばPBLのレポートのようなもの。自分たちが行事を通してどんなことを協力し、何を成し遂げたのか。行事の前後で何が変わったのか。この点をしっかりと生徒に意識させながら、一人一人が自分に向き合って作文を丁寧に認めていくべきだと感じます。作文を課す担任は、作文を「書く意味」をよく吟味して課さねばなりません。

   私事ですが教育実習中、母校は水泳大会の時期でした。一位を取ったクラス担任の先生と印刷室でお会いして話していたところ、ちょうど学級通信を印刷されていたので一部頂きました。その学級通信は、生徒に対して「一位を取って浮かれて授業を怠けている君たちはいけない。大会の意味や一位という結果をもう一度考え直しなさい。」という内容です。多角的に生徒の意識を刺激することは大切で、こういった学級通信も良い方法だと自分の引き出しにそっとしまいました。作文はなおのこと、この点について生徒が自省することができるのではないでしょうか。(文章の書き方を教える良い機会にもなりますし…)

   自分が生徒のとき書いていたから「当たり前」「書いたら終わり」と考えず、一歩立ち止まってその意味を考え直して質を上げていきたいと思います。

   

   

教育基本法を考える②

前回に引き続き今回も教育基本法と実際の学校現場とを比較しつつ論を進めていきたいと思います。

 

国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

 

上記は

教育基本法第1章 教育の目的及び理念

第4条 教育の機会均等の第3項をそのまま引用したものになります。

 

小学校・中学校が義務教育期間であることは言うまでもありません。

加えて

教育基本法第2章 教育の実施に関する基本

第5条 義務教育の第4項には

国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

とあります。

 

さらに

教育基本法ではありませんが

日本国憲法第26条 教育を受ける権利、教育の義務

第2項にも

すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育はこれを無償とする。

とあります。

 

このことから義務教育期間である小学校・中学校に於いて授業料が徴収されないこととなっています。

そして日本国憲法で義務教育は無償であることも保証されています。

 

実際は...?

ただ実際の学校現場では授業料が無償であったとしても、修学旅行の積立金・給食費・教材費等々...

本来であれば、無償であるはずの義務教育を受ける為に月に数千円程度の負担が各家庭に強いられています。

  • 月に数千円程度なら払えるだろ!
  • それくらい払えないのは親が悪い!
  • 所詮親の努力不足だ!

と自己責任論に押し込めてしまうことは簡単です。

 

矛先の転換

確かに保護者は自らの子女に普通教育を受けさせる義務を有しています。

ただその義務を果たすことを国が憲法で無償である、と保証しているにも関わらず実際は毎月ある程度の金額を負担しなければいけない、というのは明らかに矛盾しているのではないでしょうか?

月に数千円程度の負担が難しい家庭を責めるのではなく、本来は無償であるはずの義務教育に金銭的な負担を強いているという制度そのものを問題視した方が良いのではないか、と強く思います。

 

よくありがちな批判

この問題の行き着く先として

よくありがちなのが

  • 財務省がお金を出さないからだ!
  • 文科省は現場のことを何も分かっちゃいない!

等々、行政批判だと思います。

確かに行政を批判することももちろん必要だとは思いますが、行政にも行政なりの考えがあって義務教育を無償としていないのでは?

という新たな視点に立つこともまた必要なのではないでしょうか?

 

積極的な意見発信

先に述べた新たな視点に立ち、そのうえで

何故義務教育を無償とすべきなのか?

という質問に対して誠実に答えることのできるように理論武装することが必要になるでしょう。

私のように憲法というアプローチでも良いでしょうし、実際に月数千円程度の金銭的な負担が困難な家庭が結束し、「当事者の声」というアプローチももちろん良いと思います。 

 

何れにしても

「保育園落ちた!日本死ね!!!」

という端的で、かつ逼迫したメッセージが国会を動かす時代に来ている今、私たちにも出来ることは必ずある!

と私は思います。

 

青野

 

 

 

 

歪な古文暗誦文化

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

   これが平家物語の冒頭だと分かる・覚えていることに、なんの意味がありますか?今回は古典の思考停止ともいえる暗誦文化についてです。

覚えて何になるのか

   中学で平家物語の冒頭や「月日は百代の過客にして」と奥の細道の冒頭を暗誦することで何の力がつくのでしょうか。私はこういった冒頭だけを覚えていて役に立ったということがありません。暗誦をさせる先生方に、何を目的として生徒にさせるのか伺いたいところです。またそれを生徒に伝えているのでしょうか。

   その上暗誦テストがあれば、何のために覚えるのか生徒は分からないまま覚えて採点される。古典嫌いが生まれる一因だと考えます。社会に出るとき必須な能力を養うと、アクティブラーニングなどを提唱する傍らでこれでは支離滅裂です。

なぜ特定の古典だけ?

   平家物語源氏物語奥の細道など、冒頭を暗誦させられる古典は数多くあります。疑問を呈したいのは、なぜ特定の古典だけなのかということです。漢文の春望・春眠暁を覚えずを覚えている人は少ないのに、川端康成の雪国の冒頭を覚えている人は少ないのに、特定の古典は覚えている。なぜ…?意図や目的は考えず無意識的に「覚えるべきもの」という意識があり、通例化しているからではないでしょうか。伊勢物語の東下りにある和歌は覚えさせるのに、百人一首は自分も覚えていない。教科書に載っているから、みんな覚えるものだからという考えで暗誦を課しても意味を持ちません。

目的化した暗誦はNG

   繰り返し音読することは古典特有のリズムと言葉遣いを感じ、語句の理解を確認する上で有効な手段です。音読を「しなければならない状況にさせる」ために暗誦をさせることは一つの方法といえます。暗誦するために生徒は何度も音読することになります。

   しかし暗誦が目的では、覚えて何になるのかという問いに戻ります。

 

   教員になる者は、みな元は生徒です。授業を考える際は自身が受けた授業の記憶が大きく関わります。古文暗誦のように自分が経験していたものでも、その当たり前と考える授業に果たして意味はあるのか、生徒にどんな学びがあるのか、一歩立ち止まって考え直すことを忘れてはならないと思います。

    以降、個人的な考えですが古典の授業で大切にしたいことをブログで述べていくつもりです。今回は、無意味な暗誦はさせるべきではないという考えでした。

 

 

教育基本法を考える①

教育基本法の条文と今現在学校が抱える課題等とを比較しつつ、私なりの考えを5回(あくまで予定。変更する可能性あり)に分けて述べていきたいと思います。

 

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

皆さんご存知の通り、上記は

教育基本法第1章 教育の目的及び理念

第1項 教育の目的をそのまま引用したものになります。

 

この条文から教育の目的は「人格の完成」であることが分かります。

 

ただ今現在、学校で行われている教育は「人格の完成」を目的とするに相応しいものとなっているのでしょうか。

 

このように私が考える理由として

  1. 受験・入試の為の学校
  2. 生徒指導のスタンダード化

の2点が挙げられます。

 

高校受験の為の中学校?

私が今、週1回のペースで授業見学をさせていただいている某公立中学校の廊下にこのようなはり紙がしてありました。

「高校の授業は中学校の授業のうえに成立している。54.1%が大学に進学する現代、学びはずっと続いていく!」

若干の齟齬はあるかと思いますが、大体このような文言でした。

何となく言いたいことは分かるのですが、この文言だけを見ると、中学校に通っているのは高校受験の為、ひいては大学受験の為、だと捉えられてしまいます。

受験の為に学ぶのであれば、わざわざ学校に行く意味はありませんし、塾や家庭で勉強すれば良いと思います。

学びがずっと続いてくことは確かなのですが、もっと他に例は無かったのでしょうか。

さらにこの張り紙の下には某予備校が発表している偏差値ごとの大学ランキングが、でかでかとはられていました。

受験の為の学校で果たして生徒の「人格の完成」を目的とする教育基本法の理念は達成されるのでしょうか。

受験の為の学校で「人格の完成」が果たされるのであれば、学校という仕組みそのものを塾や家庭に委託しても良いでしょう。

 

ゼロトレが果たす役割

生徒指導がゼロトレランスの導入等によりスタンダード化されています。

確かに生徒指導をスタンダード化することで、教員の負担がグッと減ることは間違いありませんし、教員が生徒を指導するうえで困難だと感じていることもゼロトレの導入により万事解決されるでしょう。

しかし、ゼロトレを導入し生徒指導をスタンダード化させることは生徒の為になると言えるのでしょうか。

生徒の「人格の完成」を図る為には生徒指導する際に各生徒に合わせた対応が必要とされることは言うまでもありません。

 

「人格の完成 」の為の学校にしていくためには

私が「人格の完成」と今現在、学校で行われている教育とが乖離していると考える理由を2点挙げました。

理由を挙げるだけであれば誰にでも出来るので、ここでは更に一歩踏み込んでどのようにすれば「人格の完成」が果たされるのか、私なりの考えを述べると、、、

生徒が学校に来ていることを当たり前だと思わない!!

一見当たり前のことのように思われるかもしれませんが、上記のことを常に念頭に置くことが出来ていれば、受験・入試の為の学校にすることもゼロトレを始めとする生徒指導のスタンダード化も自ずから無くなっていくのではないでしょうか。

 

青野